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阿波の局のブログ

『法華経の智慧』  随喜功徳品 

2022年11月03日 外部ブログ記事
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🌟 五十展転の功徳は絶大 須田 : 「五十展転」のところは、このように説かれています。まず弥勒菩薩が「この法華経を聞いて随喜する者には、どんな功徳、福徳がありますか?」と質問します。これに対して、仏が答えます。如来の滅後に─その真意は末法ということです─法華経を聞いて随喜する者がいるとする。それがだれであれ、年寄でも、若くても、町へ行き、田舎に行き、静かな所、にぎやかな所、いろんな所へ行って、父母、親族、友人、知人に対して、聞いた教えを、自分の力に応じて説く(随力演説)とする。 そうすると、聞いた人々は、また随喜して、次の人に教えを語る。それを聞いた人がまた随喜して、教えを語る。このように「転教」し、「展転」していって第五十番目の人に至ったとする。 遠藤 : 五十番目ともなると、随喜といっても、もうかなり薄まっているでしょうね。 須田 : それでも、その人の功徳は莫大であるというのが「五十展転」の趣旨です。 池田 : どのくらい莫大かというと、日蓮大聖人が「五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり」と言われているところだね。 遠藤 : はい。「八十年の布施」というのは、「四百万億阿僧祇の世界」に住む、生きとし生ける者に対して、それぞれの欲しがるものを、何でも与える人がいたとします。金、銀、瑠璃、瑪瑙、珊瑚など、もろもろの宝を与え、立派な乗り物を与え、七宝で飾った宮殿を与える。八十年間、それを続けます。 このように、「物」を与えるだけではなく、この人は、衆生がだんだん年老いてきて、髪が白くなり、しわが増え、死期が近づいてきたのを見て、仏法を教えるわけです。 斉藤 : 物を与えるのは「財施」。法を教えるのは「法施」です。物だけでは、どんなに豊かになっても、「老」そして「死」という人生の根本問題を、どうしようもない。そこに、法を教える必要があるということですね。 池田 : もちろん、この大長者が衆生に教えた大法は、法華経以前の教えです。 遠藤 : はい。そこで教えを聞いた衆生は、皆、阿羅漢の悟りなどを得ます。声聞の悟りです。が、それでも「すばらしい境涯」と思われていたものです。 須田 : これだけの「財施」と「法施」をやり抜いた人の功徳というのは、「どうだ、弥勒よ、どう思う。大変な功徳と思うか?」。仏がそう聞きます。弥勒は「この人の功徳は、はなはだ多くて、無量無辺です」と答えます。 すると仏は、「この人のその大功徳よりも、先ほど言った『五十番目の人が法華経の一偈を聞いて、随喜した功徳』のほうが、もっと大きいのだ」と説くのです。その「百倍、千倍、百千万億倍」の、それ以上の無量の大功徳があるというわけです。 池田 : いわんや、第一番から四十九番目までの人の功徳をやということです。妙法の偉大さです。第五十番の人は、文字通り解釈すれば、自分が随喜するだけで人には語っていない。他の人に語る「化他」の行動はないわけです。それにもかかわらず、それだけの功徳がある。いわんや、もっと歓喜し、「化他流通」に励む人の功徳は「無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず(比べられない)」(法華経五二一ページ)と説いてある。 「法華経の一偈」を聞いてとあるが、文底から言えば、「南無妙法蓮華経」ということです。御本尊ということです。御本尊の話を聞いて、「すごいな」「すばらしいな」「ありがたいな」─そう思っただけで大功徳がある。 いわんや喜びにあふれて御本尊を拝し、妙法を、力に応じて「随力弘通」する人は、絶対に、祈りとして叶わざるなく、福運として来らざるなく、願いとして所願満足にならぬものはない。そういう文証です。 「五十展転」──。 大聖人は、一生の間に一回でも題目を唱えたり、また題目の声を聞いて喜び、さらにその喜びの声を聞いて喜び、このようにして五十番目となる人は、智慧第一の舎利弗の如き人よりも、文殊菩薩や弥勒菩薩のような大菩薩の如き人よりも、百千万億倍の功徳があるのだと仰せです〈「月水御書」、御書一一九九ページ、趣意〉。

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