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八十代万歳!(旧七十代万歳)

78年続く平和をこのまま守り抜いて・・・空腹は焼夷弾より怖かった。 

2023年08月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


8月15日は戦争でボロ負けした日だと知っているのは何歳以上の人でしょうか。
戦争で家族は死なず、家も焼かれないのに、インフレで、14歳から稼がなきゃならなかった私。14歳以後の人生をぶち壊した戦争に、怒り心頭です。
私は戦後間も無く女学校を辞めました。私は母の45歳の時の子です。お嬢様育ちの母は敗戦の時59歳半でした。私が働かないと食べて行けなくなったのです。充分あったはずの父の遺産は、1ヶ月食べられるはずのお金で、菓子パン一個しか買えなくなりましたから。インフレは何よりも恐ろしかったです。結局まともに勉強できたのは小学校だけ。それも修学旅行は私の学年から無くなってしまい、遠足さえも無し、学校行事の楽しさは何一つ味わえなかった世代なのです。
15歳になってやっと入れた食堂でウエイトレスの仕事をしていたら、半年後に軽い結核になり、半年療養、そのあとは19歳でバスの車掌になるまで、ろくな仕事には恵まれませんでした。17歳の冬、大学生のフリをして、道端でノートや傷物の鏡を売ったのは、結構楽しい日々でしたが。偽学生でアルバイトをしながら、仲間の大学生たちはいつ学校に行っているんだろうと、不思議に思ったものです。。。稼がないと食べられなかったからですが。彼らはちゃんと卒業できたのでしょうか???まあ当時の子供は逞しかったから大丈夫でしょうけれど。大学生の男の子たちの3割ぐらいは単独行動をせず、2人組でバイトの物売りに出ました。女の子は2人で組むのが当たり前でした。私だけが、1人で出たがったのです。14歳から働いて17歳になって居ましたので、1人でないと儲からないと思っていたのです。それほど切実にお金が必要だったのですね。早く編み機を買って編み物で自立したかった。でも買ったのはあまりにも初期の編み機だったので、能率悪くて商売にならなかった。それに、私には向かない仕事、早めに挫折して良かったのです。無駄にした編み機は高かったけれど。
挫折には慣れっこになっていてコレがダメなら次は何?切り替えは素早い。そんな時東急バスの募集を見たのです。15歳の新卒中学生の募集でしたが19歳だけど合格しました。これは9年余り続けました。(当時の15歳はオトナ。1人前の仕事をして弟妹を養ったりしていました)工場よりかなり給料が良かったからで、仕事には飽き足らなくても、ボランティアにのめり込むには都合が良かったのです。その後も望んだ結婚はダメになるし、仕事も焦って何か始めてはしくじる繰り返しでした。まあそれでも遅めに結婚し今娘も息子もしっかりやっています。娘は外国に住み着いていますが、息子の中距離介護には大きく助けられています。認知症の夫は素敵な老人ホームにお世話になっています。
息子の支えで一人暮らしが保てている私の人生は、今が1番幸せ。まあ終わり良ければすべて良しと言えましょう。

地域ラジオに語り手として民話の番組を持たせていただいていますし。楽しいことがたくさん有ります。
この幸せは、日本が78年間戦争をしていないからです。
平和憲法がもし無かったら・・・ベトナムの20年戦争に引き摺り込まれて負け戦で悲惨な目に遭い、中東の対立にも派兵させられ、戦死者遺族たちの嘆きはいかばかりか。戦費で、社会保障は貧弱になり、貧富の格差は広がるばかり。貧乏国に成り果てたでしょう。
平和憲法が私たちの暮らしを守ってくれていたのです。憲法改悪絶対反対です。戦争できる国にしたら、庶民はえらい目に遭うはず。先ず、飢えるのは必至。海からも空からも食糧が届かなくなりますから。
平和憲法を守り抜きましょう。2度と戦争で飢えないために。
お腹が空くって辛いことよ〜〜〜
身長の低い私が証明します。

空腹は焼夷弾より怖かった!
どなたに頂いた画像だったか混ざってしまい分からなくなりました。ごめんなさい。

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