筆さんぽ

連載「バンコクカフェの女」(2) 

2024年04月22日 ナビトモブログ記事
テーマ:連載物語

(前回)
「よく来るのですか?」
 「まあね」と伊藤さんは、生返事をしながら人指し指を上に上げてボーイを呼んだ。
 「ノックを呼んでくれないか」

 やってきたのは、髪の長い女であった。明るい碧色のスパンコールをびっしりと貼りつけた、タイトなワンピースで痩躯を包んでいる。四肢もモニュメントのように形よく伸びて、すがすがしい。

 伊藤さんの横に座ると、顔がはっきりと見えた。艶色な表情をもち唇に笑みを浮かべていたが、切れ長い澄んだ瞳は警戒の色を放っていた。色を添えているのは口紅だけのようだが、目鼻立ちはくっきりと際立ち、気の強さをふくんでいるような、鋭角を組み合わせたような美人である。
 「ノックです、よろしくお願いします」

 たどたどしい日本語で、日本のクラブのホステスさんのような挨拶をした。顔の表情の印象とはちがい、角のとれたまろやかな声調でやさしさが伝わる。ノックというのは「鳥」の意で、日本でいう「源氏名」のようなものだろう。
 「だれかもう一人、呼びますか?」と伊藤さんがちいさく笑って言った。
 「いや、けっこう」。田村は左手をちいさく振って断った。

 伊藤さんが、ノックに挨拶を促した。美女は知性を認められることを欲すというが、意思を強調するように、田村の目をじっと見た。かんたんなお互いの自己紹介のあと、ノックはタイ語と日本語、英語をカクテルしながら、運ばれてきたナマズ料理の「ヤムプラードゥックフー」で話を盛り上げた。
 伊藤さんと田村は、店がはねるまで酒を飲んで店を出た。

 「ノックの家へ寄っていきませんか、いいもの見せますよ」
 伊藤さんは田村を誘った。伊藤さんはすこし酔っているようだった。そして、「ゆっくり飲み直しましょう」とつけ加えた。

 店の前にたむろしている「サムロー」を二台つかまえて、ノックの家に向かった。サムローは「三つの輪」という意で、後部の幌付きの座席を自転車で引く「人力三輪タクシー」である。二台つかまえたのは、後部座席には大人二人しか座れないからである。ノックノといっしょの伊藤さんは、田村が乗るサムローのドライバーに行き先を細かく指示した。

 サムローは大通りを横切り、ちいさな運河河の橋を渡り、明るい広場を抜けて、小路を何本かやり過ごし、木造の長屋の前に止まった。正直なドライバーで代金は、もうひとりの方にもらっているからと受け取らなかった。三人で長屋に入った。

 長屋の各部屋は正面に木製のベランダふうの板の間をもち、その先に玄関がある。玄関は、大きな木製の観音開きのドアで、その片側だけを開けてなかに入った。部屋は、十畳ほどのリビングで、床はやわらかいポリエチレンのマットが敷き詰められていた。部屋の奥にシンプルな四人がけのダイニングテーブルがあり、その奥にキッチンがあるようだった。部屋の左側の壁面には、幅広い本棚が並び、反対の壁にテーブルとソファがあった。

 伊藤さんは田村にソファをすすめた。ソファは脚のないフロアソファで、背もたれに身体を預けて伊藤さんに声をかけた。
 「おじゃまじゃないですか」

「いや、あのカフェというやつは苦手でしてね、店を出ると、ほっとするのです。女の子たちは、サーカスに売り飛ばされた子どものように舞台に上がると哀しい顔をしているけど、歌い出すと楽しそうでしょう。どうしたいのでしょうね」

 そこにキッチンから、着替え終わったノックがやってきて口をはさむ。
 「それがわからないから、立ち止まって道をさがしているのよ」
 「時間は過ぎていくだけだろうに」
 「彼女たちにとって、時間はね、過ぎていくものじゃないの、時間はやって来るものなのよ、だから待っているのよ」とノックは、伊藤さんと田村を見て言った。
 田村は「新潟の酒『上善如水』を思い出し『心おだやかに過ごしている』ということか」
と、ひとりごちた。

「何もありませんが、つき合ってください。「タイの焼酎でもいいですか?」。伊藤さんが持ってきたのは「ラウ・ローン」で、琉球に伝わって泡盛になったと沖縄で聞いたことがある。
 伊藤さんは、ソファに接した壁面の幅広い本棚の前に立った。
 「いいものを見せるって、これですよ」
 本棚には、数十本のウイスキーや魚醤のナム・プラーの空き瓶がずっしりと並べてあった。

 田村も立ち上がって瓶に顔を近づけると、瓶の一つひとつに、五センチほどの大きな目をもつベタが入っていた。
 松の葉のような美しい常磐色がいる。淡い金赤、浅黄色がいる。
 伊藤さんはソファに座って、ラウ・ローンを飲みながら自分のことを話し出した。

 水産会社では、ナマズの養殖事業をはじめようとしていた。これには下地があった。はじめはプラー・ニンという食肉用淡水魚の養殖で、この魚は、エサをより好みせず、繁殖力が盛んで、しかも肉厚で美味、練製品にして日本に出荷し、規模も大きくなり成功した。伊藤さんの水産会社は、これに味をしめてナマズの養殖の話になった。
 ナマズの養殖は、小規模であれば問題ないが、大規模養殖場となると難儀である。ナマズは小魚やカエル、エビなどの小動物を食べるが、そのエサの研究もしなければならない。人工のエサを開発したとしても、そのエサに慣れるまでには時間がかかる。ナマズは共食いをするから注意しなければならない。アユタヤ郊外の養殖場の設備やエサの研究のさなかだった。
 近所の少女が工事中のナマズ養殖池に行ったまま行方不明になった。少女を探しに来た父親が、池に浮かんだ「赤い麦藁帽子」を発見して、池の捜索がはじまり、水死体になった少女が発見された。
(つづく)



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR







上部へ