筆さんぽ

連載「バンコクカフェの女」(4) 

2024年04月24日 ナビトモブログ記事
テーマ:連載物語

(前回)
「明日は、みんなでいっしょに試合を見に行きましょう」と伊藤さんは言って「赤帽子が勝ったら、ノックに身請けの証文を返してあげると約束したのですよ」と続けた。


 上顎と下顎を刃のように鋭く突き出し、隙をうかがいつつ、深緑色と丁子色のベタが互いの鰭を食いちぎる。ときには牽制して相手の肝を奪おうとし、あるいは破竹のごとく突き進む。口先を狂気な武器にした、組んず解れつの闘いは、水槽を割り砕くのではないかいかと思うほどの凄まじさである。

 闘魚は、アユタヤ市街から車で四十分ほどの、ちいさな村の農家で行われた。入場料もとる。
 家に入る通路には見張り小屋があって警察の取り締まりをうかがっている。さらに家の扉には、覗き窓があって顔を確認してから人を入れる仕組みである。
 部屋の真ん中に縦横二メートルほどの木箱を置き、その上に、水を張った縦横五十センチほどの水槽が乗せてある。水槽の周りには、血走った目の農夫と思われる男や、首がうなだれるほどの太い金のネックレスをした都会の女、華僑系の赤ら顔で腹を突き出した男たちが囲む。

 闘魚のルールは、いたってかんたんである。鰭をボロボロにされ、戦意を失くしたものが負けである。「縄張り争い」に敗れたベタは、こんどは狼に追い詰められた羊のように逃げまわる。勝者は容赦せず、水槽から出て行けといわんばかりに追い立てる。劣勢を挽回できないと見るや、ベタの主人は小網で素早く救い上げ、持ってきた小瓶に戻してやる。瓶の中のベタは、戦う前の鋭利な刃物のような目は失せてなくなり、主人と同じように、傷つき泣いているようにも見える。
 勝負がつくと、勝者のベタの持ち主に、大金が支払われる。また、ベタ同士の戦いのときに、ベテランの胴元が、ベタの様子をよく観察して、掛率を決める。

 いくつかの試合を終えて、いよいよ「赤帽子」の出番である。赤帽子は、どちらかというと小柄に属するが、相手は猛牛のように大柄である。胴元は、瓶の中の二匹のベタを観察、品定めをして、掛率を決めた。どよめきが起こった。掛率はなんと、三十対三である。つまり、赤帽子が勝てば掛け金の三十倍もらえる。金持ちはリスクを負わず、三倍になるベタに大金を賭けるだろう。
 田村と伊藤さんとノックは相談した。三人とも同時に、持ち金を全部賭けようと言って顔を引き締めた。三人の有り金は、三万バーツちょっとであった。
 「全部賭けよう!」
 赤帽子の相手は、華麗なドレスのような尾鰭をもつ、黒と灰色の中間くらいの黒茶色である。ベタにしては頭部が大きく、鼻孔がやや盛り上がる。どう猛な雄牛のような形相、つまり雄牛の「ブル」のようである。赤帽子はブルのように尾鰭をもつが、比して、体はひと回りちいさい。ちいさいが、強い意志を秘めた濁りのない目は鋭く、小瓶のなかで満を持す。

 水槽に、赤帽子とブルが同時に放たれた。
ブルは赤帽子を威嚇しつつ、水槽の中をゆっくりと周る。勝利を確信し、リングで軽やかなステップをたのしむ余裕の田村シングチャンピオンのようである。赤帽子は、ブルの目を見据えたまま、水槽の中央でゆっくりと瑠璃色の体を回転させる。
 田村とノックが赤帽子を囃し立てるが、伊藤さんは「黙って見ていろ!」と、たかまる自分を抑えるように一喝した。
 この一喝をゴングにしたのか、ブルが赤帽子の尾鰭を目がけて矢のように走った。赤帽子の尾鰭のつけ根あたりは破け、破片が瑠璃色のスパンコールをふりまいたように水槽に散った。それでも赤帽子は動じなかった。ブルの目を射るように、睨んだままである。転じたブルは、田村シングのジャブのように、赤帽子の華麗に舞う背鰭、傷ついた、絹のように美しい尾鰭を食いちぎる。赤帽子の鰭という鰭は、裂かれたレースのカーテンのように水のなかで揺らぐ。それでも赤帽子は、ブルを見据えたまま、口先をブルに照準して動かない。ブルの第二弾、第三弾と執拗な攻撃が続くが、赤帽子は何を考えているのだろう、「臆病者、それでもタイのベタか!」と、観客が罵る。聞こえたのだろうか、赤帽子の瑠璃色の体がやや浮いたとたん、鋭い口先が矢尻となって、ブルの背鰭に突進した。瞬間、ブルの背鰭は腕をもがれたように、ちぎれ飛んだ。なんと鋭利で豪胆な攻撃であろう。一瞬、世界の音という音は消えた。瞬きする間の静寂の後、唸り声のような歓声が上がった。ブルは戦意を失い、老いた大きな牛のように、体をつぼめて逃げまわっている。赤帽子は、やり場のない怒りをサウンドバックに叩きつける田村サーのように、攻撃の手をゆるめなかった。

 「よくやったぞ、赤帽子!」。
 田村と伊藤さん、ノックは、顔をあふれる涙で濡らし、力いっぱい拍手を送った。
(最終回へつづく)



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