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はじめての海
2024年05月07日
テーマ:筆さんぽ
図書館で久しぶりに知人のNさんとあった。
「お茶にしようか」と目で合図して、図書館前広場のオープンテラスで珈琲を飲んだ。
「オレは風呂嫌いでな、あの閉塞した空間にいるだけで、気分が悪くなるんだ。で、モンゴル人になりたくなるんだよ」
「モンゴル人?」
Nさんの家に、ドジル君という若者が遊びに来た。
ドルジ君はモンゴルの人で
息子の学校の留学生だと自己紹介した。
パッと見、モンゴルの人と日本人は
区別がつかないほど顔がよく似ている。
似ているだけではなく、なにやら現代の日本人よりも「古風」に感じる。
想像をふくらませると、ドルジ君にふるきよき時代の日本人を感じる。
無口で、ひかえめで、聞かれたことしか喋らず、
自分の等身だけで誠実に生きているかつての日本人である。
日本人とモンゴル人は似通ったところがある
たしかに、日本人のルーツの一説として、
同じモンゴロイドに属するモンゴル人の祖先がある。
共通の祖先とはいうものの
元来、日本人のイメージは温厚な農耕民族で
モンゴルの人というと勇猛果敢な騎馬民族または遊牧民族。
性格は異なるが共通するところもあるにちがいない。
ドルジ君とNさんの息子と雑談した。
息子が夏休みに海水浴に行くという話になったとき
ドルジ君は「海水浴?」と息子に聞き返した
息子が「海に入って泳ぐことだ」とこたえると
ドルジ君は、いちども海を見たことがないといい
モンゴルの人のほとんどは生涯海を見ないで死ぬとつけ加えた。
ドルジ君が目にしたことのない海は
包容力ゆたかで、日本人の使う漢字では、文字のなかに母がいると話し
海は南太平洋のある島の憲法の前文では「海は我々を分かつのではなく一つにしてくれる」とあるそうだと話すと、
ドルジ君は「モンゴルの草原と同じだ」とこたえ、
古くから大自然に包まれているのも同じだと言う。
ドルジ君は遊牧民族の家に生まれ育ち
子どものころは標高三千メートルの高原で羊と戯れ
夜はパオくるまれて大きな星空のもとで寝た。
農耕民族の日本人と遊牧民族のモンゴルの人は「水」については
認識のちがいがある、とドルジ君は言う。
モンゴルの人は草原に水溜りがあると大きく迂回する
たずねると、ドルジ君もその理由はわからない
水溜りをよけるくらいだから、むろんお風呂にも入らない。
モンゴル高原は乾いている。垢がすぐに干からび、あとは風がもってゆく。
これは空気浴といってよいだろう。
Nさんはうらやましいとさえおもう。
モンゴルの人は古くから魚は食べない。ドルジ君も頑として受け付けない。
おいしいからと無理にすすめると「日本の海の民に感謝して」と言って食べた。
Nさんはドライブに誘われた。
息子はドルジ君に海を見せたいという。
ドルジ君はクルマのなかで「海だ、海だ」とひとりはしゃいでいた。
海辺にたどり着いたのは、海が金色に染まる時間だった。
海は生きているようにうねり、黄金を撒いているかのごとく光を反射する。
「綺麗だ……」
クルマを降りた
Nさんたちは、立ち尽くしたまま息を飲んだ。
ただ「美しい」と吐息のように呟いた。
ドルジ君は、海辺のほうに歩いて行った。すると途中でドルジ君は眩んだようにその場にひざまずき、岩のように動かなくなった。
その場に屈したドルジ君はやがて、そばにあった石を集め、ちいさな石の山を築き、海に向かって、呪文のようなモンゴル語を唱えだした。
Nさんには古代の人の自然崇拝の儀式ようにおもえて、はるかむかしの神話にある海の民として暮らした「海彦」と言葉を交わしているようで感動が胸に押し寄せた。
海のほうも、このような古代の心と対面するのは何千年ぶりであったろう。
写真はみなとみらいの臨港パークから海を臨む
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海彦山彦
おっしゃるように、モンゴルの人は魅力的なようですね。
ぼくは、大仰にいえば、日本人が忘れた海彦山彦の世界を知っているのではないのだろうかと、想像を楽しんでいます。
2024/05/12 09:38:12
モンゴル
運動施設にモンゴル出身の40代の若い男性がいます。
日本語が日本人より上手
モンゴルの話してくれます。
明るいし、面白い
よく物事知っている明るい
顔は小さい 相撲もしてたみたいです
2024/05/07 18:29:31