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師走の中で電話に思いを馳せる 

2011年12月20日 外部ブログ記事
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私の初めて使った電話は黒塗りでぐるぐると手で回すハンドルがついた物だった。ダイヤルがなく、数字の電話番号を廻す物は後に登場する。当時は、受話器を置いたままハンドルを回して交換手を呼び出し、相手の電話番号を伝えて繋いでもらうというものだった。電話のある家は少なく、2〜3軒隣のうちから「電話ですよ」と呼び出してもらうなど、ノンビリとした時代だった。
電話の発展は目覚ましく、現在のようにほとんどの人が携帯電話を持つようになるとは、誰が想像しただろう。12月16日は「電話創業の日」だった。電話について、産経新聞のコラムに面白い記事があったので紹介したい。
 
平成志事術
西川りゅうじん
「声の便り」を届けよう
 
12月16日は「電話創業の日」だ。明治23(1890)年のこの日、東京と横浜、および両都市間で電話交換業務が開始された。当時は、交換手が通話する双方の間に入って、すべて手動で電話をつなぐ仕組みだった。東京滝ノ口と横浜居留地に電話局が設置され、女子7人と夜勤の男子2人の交換手が応対した。
しかし、電話加入者を募集したものの、年間の使用料が40円(現在の貨幣価値にして10万円以上)と高価だったこともあり、東京・横浜を足しても200台ほどでのスタートとなった。電気で通じると言うと、火事を起こすとか病気がうつると恐れられたり、声を運ぶなら物も運ぶだろうと電話線に小包をぶら下げられたりするありさまだった。
ちょうど同年、浅草に日本における高層建築の先駆けとなる「凌雲閣」が建てられた。時の逓信省は、このタワーの1階と最上階の12階を電話でつないで通話体験ができるコーナーを設けるなど理解に努めた。
そのかいあって徐々に便利さが浸透し、加入者が増加する。10年後の明治33年には、新橋駅と上野駅を皮切りに各地に公衆電話が設置され、誰もがこの文明の利器の恩恵を享受できるようになっていった。
世界で最初に電話を実用化したのは、アメリカのグラハム・ベルだった。試行錯誤の末、1876年、彼は通話実験に成功する。ベルの父は言語障害者のための視話法を考案した大学教授で、彼自身もヘレン・ケラーに家庭教師のサリヴァンを紹介するなど障害者教育にも尽力した。
たまたま、その時、ベルの下で視話法を学んでいた、後に初代東京音楽学校(現・東京芸大)校長となる伊沢修二と米国留学中で後の農商務大臣となる金子堅太郎が、電話を使って日本語で会話を交わし、言語に関係なく通じることが確認された。
これによって、日本語は英語に次いで世界で2番目に電話で話された言葉となった。2人は声を大にして電話の有用性を日本政府に訴えた。その結果、わが国は発明の翌年にいち早く電話機を輸入し、次の年には日本製の電話機を完成させた。
本来、英語のテレホンとはギリシャ語由来のTELE(遠い)とPHONE(声)から成る単語だ。直訳すれば「遠声」だが、「電話」の方が当を得た意訳である。
また当初、ベルは電話の呼びかけの言葉に「AHOY(アホイ)」(おーい)を提唱した。日本でも最初は「おいおい」と呼びかけ合ってから用件に入ったという。その後、アメリカではエジソンが提唱した「HELLO(ハロー)」が一般化する。日本では「もしもし」と言うが、語源は「申します申します」が略されたのだといわれる。
それから120余年今や携帯電話が当たり前の世の中になり、通話や電子メール、インターネットの端末としてはもとより、カメラ・時計・電卓・辞書・音や映像の再生機・ゲーム機といった複合的な機能を持ったスマホ(スマートフォン)へと進化を遂げている。
しかし、いつの世も心のこもった会話こそが人を動かし、次代を創ることに変わりはない。「愛語能く廻天の力あり」。大切な人、お世話になっている人、ごぶさたしている人に声の便りを届けよう!
 
 

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