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梅岳寺・立花(戸次)道雪墓所 

2012年05月12日 外部ブログ記事
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立花山 山頂

 
梅岳寺・立花道雪墓所
 
立花山麓にある曹洞宗の古刹で、立花城の城主戸次道雪とその母養孝院の墓所があります。元中二年(1385)室町幕府3代将軍足利義満の時代に花谷山神宮寺として創立。
 
天正三年(1575)道雪の母、法名養光院がこの寺に埋葬され、養孝院と改められます。
同年、大友宗麟の命令で戸次氏の家督を継いでいた甥鎮連の子統連に立花氏の
家督を譲るように迫られますが道雪は拒絶し重臣の薦野増時を養子に迎えようとしました。
 
しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪はただ1人の愛娘である?千代(ぎんちよ)に家督を譲り、立花山城主としています。
天正九年(1581)、同じ大友氏の家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子、統虎(立花宗茂)を婿養子に迎え、家督を譲っています。
 
天正十三年(1585)道雪が筑後北野の陣で病死すると、高橋紹運らはその遺骸を守って立花山に帰り、母の墓所がある養孝院に葬りました

梅岳寺は立花宗茂が柳川の地に移る際に立花家の香華所としてともに移され、のちの福厳寺となりますが、道雪とその母の墓はそのまま立花城下に残されました。
その後、衰微していましたが、立花家4代鑑虎の妹が福岡藩主黒田綱政の室となったため、
元禄十年(1697)に卍山を招いて中興の開山としました。
 
本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連(べっき あきつら)または戸次道雪(べっき どうせつ)で通していました。     
 
山門

 

本堂

本堂と立花山

 
 

 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
本堂の脇を通り墓所へ

 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 




 
立花道雪 母・養孝院  重臣・薦野増時の墓所


 
梅岳寺

 
梅岳寺を出ると雨が降りだしました。

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