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徒歩例会 福山城北を歩く 

2012年12月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

備陽史探訪の会
ー福山城下町誕生の起点ー城北を歩く
 
福山駅北口 噴水広場
二の丸石垣前 内堀だった所です
50名以上の参加者でした。
 

     福山城は元和八年(1622)に完成しました。                       新規の築城としては近世城郭で最も新しい城です。                      
輪郭式の平山城で、かつては内堀、外堀を持ち運河までありました。
五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭でした。

北東の虎口

二の丸から天守閣東面を見る
石垣がイマイチ
     
水野勝成像前で説明を聞く 

 
水野勝成 
初陣は天正七年(1579)の高天神城攻めで家康軍に加わる父・忠重に従って出陣。
天正八年(1580)、父・忠重が、信長に引き抜かれ、刈谷3万石の大名になる。
同年の高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻め、このとき勝成は16歳にして 首級をあげ、信長から感謝状を与えられました。                    
    
      天正壬午の乱・ 小牧・長久手の戦いなどに参加し戦功を重ねますが、 
   父・忠重の部下を斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構としました。
 
天正十三年(1585)の四国征伐に仙石家中として参加しますが、また放浪します・
 
天正十五年(1587)には肥後の佐々成政に召し抱られ、成政切腹後は小西行長
立花宗茂、黒田官兵衛に召抱えられますが、黒田長政に従い大阪に船で向かう
途中、鞆の浦で船を降りまた、 流浪します。                       
 
備中成羽の国人、三村 親成の食客となりますが、秀吉の死去により混乱の様相を呈し始めると、上洛し徳川家康の幕下に付きました。                  
 
寛永15年(1638)、幕府から要請で島原の乱鎮圧にも福山から出ています。 

 
 
 
関ヶ原・大坂の陣でも戦功を重ね、大和郡山で六万石を与えられました。
   福島正則の改易に伴い福山10万石を与えられました。                              

 
 二の丸帯郭を南下し月見櫓

ちょっと崩れて・・石垣に印が有ります。 
算木積みの下の方は手が入る程緩いです。

 銃眼から覗く 福山駅構内
元はここに塀は無かったようです。

 伏見櫓の算木積み
流石ビシッとしています。

筋鉄御門



伏見城から移築された伏見櫓 

 

 
二の丸石垣と福山駅


 並の城郭であれば天守に相当する規模。

 
 

 鐘櫓(手前が火灯櫓跡)
なんだか変な空間になっていますが


元は 御台所門の虎口で二の丸から見ると
鐘櫓の反対側に門を埋めた跡を確認することができます

 
阿部正弘の銅像
福山藩阿部氏第7代目の当主で、幕末の老中として活躍した人物です 

 
二の丸東側


 

城西方を見る 


 

 天守北側

  
探訪の前に会員の方から福山城の水の手(井戸)がいまいちハッキリしていない
という話を聞いていたところ、井戸が有りました。
二の丸下段北側で藩政時代には兵糧米を収蔵する城米蔵があった場所です・
今は福寿会館の庭園になっています。

フタは苔むしたコンクリート         すぐ下に水が見えます。               
井戸にしては水が高いと思いました。
福山城北面
北面の下段二層には鉄板が貼ってあったと云われます。
 

  

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