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叡山坂本の歴史の道をゆく 〜滋賀院門跡から西教寺まで歩く〜1 

2013年03月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

叡山坂本の歴史の道をゆく
〜滋賀院門跡から西教寺まで歩く〜
     青春きっぷの旅恒例、網干駅で乗り換え


 
比叡山坂本駅に着き探訪開始
   
 
 
 
 
 
 
 
   今回歩いた経路  

地図上の下の鳥居↑             

 
 


 

 
生源寺門


生源寺本堂
京阪電鉄坂本駅のすぐ北側にあります。
日吉大社大鳥居のすぐ前にあり奈良時代後期、
最澄によって開山されたと伝えられます。
最澄の生誕地といわれ、延暦寺の中でも特別な霊地として崇められています。                   
 

古井戸があり、最澄の産湯(うぶゆ)といわれています。
 

 
 
 

坂本はかつて三塔十六谷、三千坊といわれた比叡山
延暦寺の台所を預かる門前町として栄え、 参詣の人々で賑わいました。                   
                        
享保初年に当代鶴屋喜八なる人が坂本の里に蕎麦営業の店を開設し、以来代々業務に従事致しております。                         
鶴喜蕎麦は実に二百九十年の古き歴史であります。    
本家 鶴喜蕎麦            日吉そば   

 
 
 

 
日吉そばの前より坂を登る
 
 
穴太積みの石垣
 
滋賀院門跡に到着
 

 

天台宗比叡山延暦寺の里坊を代表する門跡寺院
 
穴太積みの石垣の上に白壁をめぐらした優雅な構えをしている滋賀院は延暦寺の本坊で、江戸時代まで天台座主の居所だったため、現在でも滋賀院門跡と呼ばれています。                           


内部は殆ど撮影禁止
江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)が
たくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れていました。
院内より近江富士を望む

国の名勝に指定された庭園

内部からの主門 
 

明治十一年の火災ですべてが灰となってしまいました現在の建物は延暦寺山上より三塔のそれぞれ最高の建物を移築し、明治十三年五月に復旧されたものです

慈眼堂
慈眼とは南光坊・天海僧正に諡られた称号で、
お堂は僧正の廟所です。
天海は家康・秀忠・家光の三代にブレーンとして仕えた人物で、信長の攻撃で一宇も残さず焼き尽くされた叡山の再興に尽くしました。                    
東の叡山・寛永寺の開祖でもあります。
竹千代(家光)を後継とするよう神君に助言した経緯があり、このお堂は家光の建立です。           

堂脇にある石塔群
天海僧正や東照大権現の供養塔のほか、歴代天台座主の奥津城もあります。
墓所の一段上には、十三体の阿弥陀仏が鎮座

日吉東照宮に向い坂を登る

石段になります

 
ラストきつい石段
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
琵琶湖が見えます

 



 日吉東照宮 
徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。                     
その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。
明治以前は比叡山延暦寺が管理をしていましたが、
明治時代に入り神仏分離令が出されると共に日吉大社の管理するお社となり、今日に至っています。      

昭和25年に社殿が国指定重要文化財に指定され、
同31年に唐門と透塀が同じく重要文化財に指定されました。                              


 
昼食後、宮司さんが来られ、門があけられました

 

 
美しい拝殿
なんと中まで入ることができました。




          画像一杯・・・               続く


 
 
 
 
 

 
 
 
   

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