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感激の古稀旅行−5 

2013年05月24日 外部ブログ記事
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両国駅で下車し、改札を出る付近からもう大相撲の雰囲気が漂ってくる。私が大相撲を見るようになったのは小学校の低学年の頃で、テレビ放送が始まったばかりの頃だった。あの力道山のプロレス中継と共に大相撲の中継は人気があった。力道山も元は大相撲の力士で関脇まで昇進したということを、今では知らない人も多いだろう。そして当時は大相撲も東京都台東区蔵前2丁目にあった蔵前国技館だった。その後、1984年(昭和59年)9月場所千秋楽を最後に閉館し、翌年1月場所から現在の両国国技館へ興行場所が移った。従って現在の両国国技館は、二代目の国技館なのだ。幼い頃の記憶をたどってみると、横綱には鏡里、吉葉山、千代の山などの顔が浮かんでくる。そして、栃錦、若乃花、大鵬、柏戸という名横綱の名前が浮かぶが、その後は外国人力士の勢いが強く、最近では特にモンゴル出身力士が横綱に昇進し、日本人横綱が長い間出ていないのは寂しい限りである。
 
土曜日だったので良い席が取れなかったという娘の話だったが、そもそも実際に大相撲観戦は初めてなので、国技館館内マップを見てもよく分からない。席表を見ると土俵に近い場所が7列ありそこが溜席、その後ろにマス席が15列ある。マス席は4人座れるがゆったりしているとは言えない。各席は正面、向正面、東、西と4面に別れている。そしてその後方に2階席が椅子席となって並んでいる。私たちの席は、正面マス席のCだったので、マス席でも後ろの方だった。
 
しかし、やはり現場で見る相撲は迫力がある。ところが、テレビ観戦を見慣れているので、きわどい勝負の時、もう一度ビデオで見るということが出来ない。これは野球やその他の競技でも同じだが、ちょっとよそ見をしている間に勝負がついていたなんてことになりかねない。そこが実際の現場で見る面白さでもあるのだが。観衆の中には熱心なファンが大勢いる。大声で四股名を叫ぶ人、ひいきの力士が勝つと立ち上がって拍手をする人などがいて、観衆の中にいるとその異様な雰囲気を肌で感じられる。例の液体が体内を巡った頃、横綱土俵入りが始まった。私はせっかくだから席を立って通路を通り、前の方でカメラを構えたが、「モシモシお客さん」と警備員の女性に声をかけられた。「お客さんの席はどちらですか?」という。私は、後ろの方を指さして「あっち」と答える。「ここで撮影しては困ります。写真は自分の席で・・・」と、言われてしまった。満員御礼の垂れ幕が下がる館内には、何人の客がいるのか分からないが、注意をうけている私のことを気にしている人などいない。また、のこのこと席に戻り、もう一杯。
隣の娘に対戦相手の解説をしながら、最後まで大相撲観戦を楽しんだ。
 
結びの一番が終わる前から席を立つ人もいた。私はよほど急ぐ用があるのだろうと思っていた。
私たちは弓取り式まで見てゆっくりとしたが、外へ出ると人の渋滞が起きていて、早く席を立った人の行動が理解できた。両国駅付近まで人の渋滞は続き、人の波の中でのろのろと進む以外方法はなかった。そして、次の楽しみはちゃんこ鍋。娘は「巴潟」というちゃんこ鍋の店を予約してくれていた。昭和51年創業者である元小結「巴潟」の四股名を冠にして、両国九代目友綱部屋の跡地に誕生したのが「ちゃんこ巴潟」で、二代目店主が九代目友綱部屋の伝統の味を基本としながら新しい味を求めて終業を重ね、独特の味わいの「ちゃんこ」にたどりついた、という説明がメニューの中に綴られていた。昭和51年と言えば私は33歳のころだが、小結巴潟は記憶にない。
 
生まれて初めてのちゃんこ鍋は、コッテリでもないがあっさりでもなく、私にとっては例の液体とのかねあいも良く、娘が奮発してくれた上等の肉が野菜の味とからまってとろけるような旨さであった。店内ではぎっしり満員の客が、それぞれの席で会話が弾み、楽しそうな雰囲気は全ての席に伝染していくようだった。
 
マンションのゲストルームに戻り、円形の湯船で身体を伸ばし、しみじみと幸せを感じながら、2日目の夜もぐっすりと睡眠がとれたのであった。
 
(5枚目の写真に私と妻がいる)
 
 
 
 
 
 

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