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平成の虚無僧一路の日記

斗南ヶ丘へ 

2013年08月05日 外部ブログ記事
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『八重の桜』第29回「会津開城」〜31回「離縁のわけ」。
もう身近な話ですので、書くのも辛いですな。

会津開城後(「落城」とは言いません)、会津藩士と家族、
18,000人が青森県の下北に移住します。18,000と
いう数字には 私も驚きました。


数年前、下北の斗南藩史跡をめぐるツアーに、母と叔母、
従兄弟連中で参加しました。最初に、陸奥湾の上陸地へ。

母方の山室の曾祖母「千代」は、慶応3年(1868)15歳で
山室重明に嫁いできました。夫「重明」は25歳。
明治3年、斗南へ移住の時は、千代は18歳。妊娠しており、
身重の体で、病弱の祖母を背負っての旅だったと伝え聞いて
いました。恐山を遠望する広陵とした原生林を見て、私も
呆然、涙がこぼれました。

その冬、極寒と飢えで、祖母も、斗南で生まれた子も
亡くなります。会津戦争よりも、戦後の方が地獄だった
のです。

『八重の桜』でも、そのへんもしっかり描かれていました。
そして、悲劇はそれだけではありませんでした。

「八重」は「川崎尚之助」から一方的に離縁状が届く。

また「山本覚馬」が生きていたという知らせに喜ぶが、
その傍らに「時栄」という女性がいて、子供まで成した
と知って、妻の「うら」は、京都行きを拒否する。
結婚して9年。夫「覚馬」とは ずっと別居だった。

もう一人の家老「梶原平馬」の妻、山川大蔵の姉
「二葉」も離縁される。「平馬」は内藤家の次男で
「梶原」家に養子にはいった。そして京都守護職時代から
会津戦争、そして斗南藩と、常に政治の中枢を担って
きたが、明治8年以降の消息は不明とされていました。
それが昭和63年になって、根室で墓が発見されたのです。
そして、梶原平馬にも 京都時代からのもう一人の妻
「水野トキ」の存在が明かになったのです。

みなそれぞれの人生を歩み始めるのでした。

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