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活弁シネマライブ 

2014年01月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 人と人との熱い繋がりによって実現した今回の活弁シネマライブは終了した。初の児島市民交流センターと
玉島市民交流センターがコラボしたライブでもあった。

 今回で9回目となる児島活弁シネマライブは第47回地球一周クルーズであるピースボートの上から始まった。
第47回は珍しく南半球一周の102日間に及ぶ長い船旅であった。この年はまさに荒れた一年で日本では
台風による甚大な被害が相次ぎ、その上、新潟県では大地震が発生した。更に船旅の途中で知ったことだが
インドネシアでの大津波によるショッキングなニュースが入ってきた。

 西暦2004年、この年は私が満60歳を迎え定年となった年でもあった。それまで想像だにしなかった
世界各地を巡る旅が偶然のようにサプライズとして舞い込んだ。私の定年を待つようにしてその年の5月
家内が関心を持って本を読んだり資料集めをしていたピースボートセンターから岡山会場での説明会に
来てみないかと言う案内があった。

 会場へ出かけたのは冷やかし程度の軽い気持ちだった。その会場で一人の青年と出会うことになった。
聞けば倉敷にも住んでいたことのあるプロテニスプレーヤーを目指していた青年だった。彼が私たち夫婦の
席に付いた。彼の熱心な誘いに乗せられるようにして仮調印してしまった。

 出発は10月末だし都合が悪くなればいつでも断れば良いと軽い乗りで調印したのだった。ところが
定年後の慌ただしさの中で、意外にもその日は急に来てしまった。お金を振り込み、オプショナルツアーを
申し込み、更には神戸税関に予防注射の接種まで行くことになってしまったのだ。

 こうなれば覚悟を決めて船に乗るしかなかった。乗船日となっていた10月21日は大変な日であった。
前日来の巨大台風のため各地で大きな被害が出たのだ。幸いにも私たちは神戸に嫁いでいた娘夫婦の家に
二日前より身を寄せていた。

 連日テレビで見る台風情報に果たして予定通り神戸港からの出発は可能なのだろうかと心配していた。
そして乗船当日、神戸港へ着いてみると各地から続々と乗船客が集まっていた。みんな一様にこれ以上は
持てないだろと思うくらいの大きなトランクや手荷物を抱えていた。

 余談になるが47回クルーズの船は海が荒れて予定日に寄港できなかった前回クルーズのため神戸港まで
回航できず、東京の晴海ふ頭に寄港しているとのことであった。従って神戸港に集まった西日本地方の
旅行者はバスを何台も連ねて東京へ向けて出発することになった。

 何もかもが予定通りに進まない大変な出発となった。21日の夜遅くなって東京の晴海ふ頭に到着し、
旅客船トパーズ号専属の楽団の演奏に歓迎を受けながら船の人となった。夜の船内はがらんとして暗く
さみしかった。

 古い旅客船であったが私たちにとっては初めて乗る大きな船であった。船のデッキから見下ろす地上の
人は小さく見えた。こうして荷解きもそこそこに疲れのため船のベッドに横になった。長い長い船旅が
この日からここから始まった。

 翌日は東日本関連の人が続々と乗り込んできて船上は一気に活気づき賑やかになった。そして夕方近く
ドラが鳴り出発となった。船と向き合うように出発ロビーがあり、その屋上は黒山の人だかりであった。
圧倒的に若い世代の人達であった。船とロビー間に紙テープが飛び交い、他の船でこのようにまで賑やかに
テープが交わされることはあるのだろうかと思うくらいの本数であった。

 届かぬ声が双方で賑やかに交わされ、見送りの挨拶と答礼の挨拶が交わされ、音楽が流れ何とも派手な
出発となった。国を離れる寂しさよりこの騒然とした風景に圧倒される思いであった。東京ベイブリッジの
下をくぐるとき汽笛が二度、三度鳴らされた時には思わず感動の涙がこみ上げてきた。いよいよ国を離れる
生まれて初めての長旅であった。それも思いもよらぬ船の旅でもあった。

 乗船してみて気付いたことではあったが、その船に私たちを熱心に勧誘してくれたG君が乗っていたのだ。
聞けば出発直前まで決まっていなかったのだが急きょ乗船することになったとのことであった。偶然にしては
出来過ぎていた。

 この船上では数々の出会いがあり、その出会いがまるで偶然とは思えないような出来事で、G君との再会も
多くの奇跡の始まりであった。実はその多くの一人が活動写真弁士「佐々木亜希子」その人であった。彼女の
活弁を見たとき私の抱いていた活弁士のイメージが消えてしまった。流暢で淡々とした語り口に見えて絶妙な
語り口にすっかり魅了されてしまった。その上、若くて美人だった。恐らく私たち夫婦だけでなく多くの船客が
同じような感想を持っていたに違いなかった。

 彼女が催すイベントには連日のように客が殺到した。とうとう一日一回公演を二回にせざるを得なくなった。
それでも会場外にも人があふれていた。すごい人気であった。船上で行われた数々のイベントの中で、これほど
人を集めたイベントがあったであろうか。

 そして彼女が主宰する活弁士養成のワークショップでは多くの若者が集い、その後に素晴らしいイベントへと
繋がっていくのだった。その中には私たち夫婦も参加していた。短い映画を何度か見せられ、その一節に台詞を
付けるのだが、しり込みをする若者を差し置き私が一番に手を挙げて発表した。その後、負けまいとして家内が
手を挙げた。私たちが夫婦であることを知っていた仲間からどっと笑いが起きた。こうして緊張が一気にほぐれ
発表者の手が次々に上がった。

 シンガポールからケニアまでの二週間、佐々木亜希子弁士は乗っていた。この間に多くの仲間が初顔合わせから
次第に親しい間柄へと変わりつつあった。赤道を越えるときには赤道祭がありデッキの上で大運動会が行われた。
ハロウインパーティがあり様々な催し物があった。

 この船旅は前例がないくらい穏やかな航海でとうとう下船まで海が荒れて困ったと言うことが少なかった。
むろんマジッククラブの発表会の時にはホワイトボードが船の傾きで移動したりとか、船に弱い人は乗船以来
デッキに出たことがない人などいたようだが、私たち夫婦は至って元気、連日、慌ただしく若者たちと一緒になって
ワイワイガヤガヤと船内を駆け回っていた。

 若者が中心の船なのに何故か二度までも講座の責任者を任され司会進行をしたり他の船客のインタビューをしたりと
忙しかった。船の中で作られる唯一の読み物であった船内新聞の記事にも取り上げられ女性記者からもインタビューを
受けた。家内などは船上でお母さん、お母さんと言って多くの若い女性達に親しまれ、彼女たちの良き相談役となり、
とうとうピースボートセンターの専属アナウンサーの一人にまでなってしまった。

 そして、とある家庭を描いたドタバタ劇の中では本当にお母さん役で出演してしまった。この劇は映画に収録され
各船室に配信され放映された。こうした貴重な経験が児島市民交流センターの仕事の伏線になっている。私たち夫婦は
若い頃の様々な活動を通じて知り合った。その当時そのままに今まで続いている。従って、この船に乗った時から
違和感なく若者たちと行動を共にすることが出来た。

 活弁だけでなく何もかもが今日に繋がっていたようだ。当初は偶然の積み重ねのように感じていたことだったが
そうではなく気が付かなかっただけで生きてきた人生の全てが無駄のように見えて無駄ではなく次の展開に
繋がっているのだと言うことを強く感じている。全ては今のために準備されていたことであり、今は未来へと
続いているのだ。

 こうして第9回活弁シネマライブは多くの方々に多大な協力を頂きながら無事に終了した。そして児島でも玉島でも
次回を期待していますと言う多くのコメントを頂いた。第9回で終わりかと思えた活弁であったが次回もありなのかと
考えている。ともあれ明日は分からない。来年を予想しつつ今回の御礼としたい。ありがとうございました。

 ピースボートを降りてからの経緯については次回に書いてみたいと思っています。お楽しみに・・・・。

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