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人生いろは坂
活弁士誕生物語1
2014年01月22日
テーマ:テーマ無し
今もって何故、活弁口演にこだわっていたのか思い出せないのだが、その時は強烈にそう思っていた。
その強い思いが実現して第一回の児島活弁シネマライブが始まった。きっと導くものがあったのであろう。
普通に言えばピースボートでの様々な強烈な思い出が冷めやらぬ状態だったのかも知れない。
ともかく児島文化協会の事務局長でもあったK君にぜひとも活動弁士を呼んで活弁と言うものをみて
欲しいと切り出した。K君は最初からもろ手を挙げて賛成と言うわけでもなく反対でもなかった。
と言うことで佐々木亜希子弁士その人に児島へ何とか来てほしいと言う交渉から始まった。
K君が了解してくれた理由の一つにK君の若いころの思い出がある。K君は学生の頃、アルバイトで
映画館へ勤めていたことがあった。児島地内に多数点在する映画館へフィルムを運ぶ仕事をしていたことがある。
そんなこともあって活弁を理解してくれたわけではなく、映画そのものに愛着を持っていたようだ。
その上、児島文化協会のM会長も理解者の一人であった。学生の頃、東京にいたことがあり、その頃、親交の
あった仲間の中に往年の名女優達もいたとのことであった。そんなこんなで児島文化協会主催で初めての
児島活弁シネマライブを取り組むことになった。
しかし、佐々木亜希子弁士の出演交渉ははかばかしくなかった。暖簾に腕押しのような状態で一向に
前向きな返事が貰えなかった。そしてついに正式な返事が貰える日がやってきた。電話口に出てきたのは
嫌にドスのきいた男の声だった。それが後に知り合い親しくなったY氏であった。
実のところ当時、活弁は東京近辺で細々と活動をしているに過ぎなかった。従って、地方から、それも
岡山と言う遠く離れたところからの要望には容易に応えられる状態ではなかった。遠征の経験が全くなかったのだ。
そんなことなどつゆ知らず交渉していたわけで、それも責任者ではなく今でいう一タレントと直接交渉をして
いたわけなので話が進展しなかったのは当たり前のことであった。そんなことも分からずに呼ぼうとしていた。
ともかく機を捉えて急きょ上京することにした。口演期日は目前に迫っていた。そして泊まった安ホテルが
ホテルパインヒルズ鶯谷だった。ホテルの裏側には連れ込みホテルなどが林立するいささかいかがわしい場所で、
これは家内がネット検索で一番安いと言うホテルを探してくれた結果であった。自弁で行くのだから安ホテルで
良いでしょうと言う家内の一言で決定した。
偶然のことではあったが、実はそのホテルは佐々木亜希子弁士が弁士として活動を開始したての頃、口演の
ために使っていた古びた映画館の真ん前のホテルだった。更にいえばこのホテルのロビーは口演の度ごとに
打ち合わせなどに使われていたホテルでもあった。ちなみに映画館の隣にあるダンスホールは役所浩二主演
映画「シャルウイダンス」の撮影に使われたダンスホールでもあった。
縁と言うものは実に不思議なものである。とは私の実感であるが私流に考えれば初めから仕組まれていた
ことのように思えてならないのである。そして私を迎えに大きな乗用車がやってきた。私を後ろの席に迎え入れて
くれたのがプロダクションのオーナーと佐々木亜希子弁士その人であった。
私は切り出される話に覚悟を決めていた。難しい話になろうがなるまいが真摯にこちらの思いを伝えるしかない。
仮にその筋の人であっても誠心誠意話せば通じると信じ込んでいた。本気でそう思い込んでいた。
案内されたのは上野公園下の焼き鳥屋であった。ここで飲みながら話したことは想像とは異なり意外な話であった。
電話の向こうのドスの効いた声は俳優を目指していた頃、わざとつぶした声が元に戻らなくなったこと。大学の
演劇部を出て映画監督を目指していたこと、映画に対する情熱は今も変わらないことなどを聞いた。
むろんこちらの思いも十分すぎるほど伝えておいた。こうして紆余曲折を経ながらやっと児島での活弁が実現した。
そして採算を度外視した価格で、初めての地方口演を引き受けてくれたのであった。後にY氏が私に報告してくれた。
この岡山遠征がきっかけとなって地方へ出ていく自信がついたとのことであった。
活弁士の交渉と同じくらい困ったのが上映会場の事であった。映写機がない、暗幕がない、スクリーンがない。
何もかもがない中で、K君がひょっとしたら架橋記念館の地下会場が良いのではないかというアドバイスをしてくれた。
早速、交渉に出かけた。その時、出会ったのが架橋記念館の指定管理入札の時、児島商工会議所の代表として会場で
居合わせたMさんであった。これまた不思議な縁であった。これがきっかけで、児島商工会議所へ出入りするようになり、
その後に彼の要請で今の児島市民交流センターへ勤務するようになったのだ。ここでも流れは続いていた。
映写機もありスクリーンもある、おまけに会場は暗幕の必要がない地下会場であった。本来、瀬戸大橋関連の
映画上映場所として作られた施設であった。文句なしの会場であった。席数は150席。おまけに映写機の操作は
Mさんがしてくれると言うことであった。
こうして150席を満席にしY氏や佐々木亜希子弁士を驚かせた第一回目の活弁シネマライブが実現することになった。
上映映画は小津安二郎監督の「生まれてはみたけれど」という小津監督初期の名作であった。会場はピースボートの時と
同じように佐々木弁士の語りに酔いしれた。感動が感動を呼び、次年度は大きく飛躍することになった。
回を重ねる毎に入場者は増え、一時は500人を超える、恐らく活弁史上かつてないほどの大入りを記録した。
会場も架橋記念館から児島文化センターへ上映映画も洋画あり邦画ありと様々に行ってきた。そして窯元のO氏の
思いがけない一言から紹介されたのが作曲と演奏を一人で手掛けてくれることになった野原直子さんであった。
この人の音楽なしでは児島の活弁は考えられなかったであろう。
出会い、人の繋がり、こうしたことはその後も続いていくことになる。続きは夫婦活弁士誕生物語2へと続く。
>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)
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