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夫婦活弁士誕生物語2 

2014年01月24日 外部ブログ記事
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 2007年の秋、突然に夫婦活弁士誕生の日がやってきた。2005年から児島活弁シネマライブ
なるものを始めて以来、私はひたすら活弁なるものをより多くの人に知って貰いたい見て貰いたいと
思い機会あるごとに色んな人に呼びかけ、そうした活動の一環として何とか連携は出来ないものかと
岡山映画祭の人たちに連絡をとった。すると比較的気安く会って話を聞いてくれることになった。
そしてその日がやってきた。

 家内と私と二人で出向き岡山のとある場所で会った。岡山映画祭の人は二人、そのうちの一人が
Oさんだった。Oさんとはこの出会いだけでなく、その後多くのことでお世話になるのだが、その話は
後ほど。

 岡山映画祭はその頃、松田完一さんと言う無類の映画ファンの方を主人公にしたドキュメンター風の
映画を撮影していた。2007年の岡山映画祭で上映するためであった。ところがその松田さんが不慮の
事故で急逝されてしまった。実は私も活弁シネマライブを始めたころから活弁のことをもっと知りたくて
松田さんにぜひともお会いしたいと常々思っていた矢先の出来事だった。それだけに松田さんの不慮の死は
私にとってもショッキングな事件であった。おまけに映画関連の膨大な松田コレクションも焼失してしまった
とのことであった。

 松田さんは岡山の映画については生き字引のような方で返す返すも残念な事件であった。急遽2007年
の岡山映画祭は松田さんの追悼式典の様相を帯びた。松田さんは生前より岡山市出身の偉大な映画俳優で
あった尾上松之助さんのことを話しておられたようだ。岡山市出身でありながら岡山市民から忘れ去られて
いく大スターを何とか顕彰したいと思っておられたようだ。そこで始まったのが、尾上松之助主演の映画を
追悼のために上映するという計画であった。

 尾上松之助と言えば岡山市で生まれ育った日本映画史上の草分け的存在の大スターであった。何故か
多くの人は「目玉の松ちゃん」というニックネームは知っていても、松ちゃんが岡山市で生まれた人だと
言うことを知っている人は少なく、そのことを松田完一さんは嘆いておられた。そこで目玉の松ちゃんの
映画「豪傑児雷也」を上映しようと言うことになったらしい。

 さて、その映画、非常に希少価値の高いフィルムで貸出先の会社からは条件として活弁士付きでと言う
ことであった。困ったのは岡山映画祭を主催する人達であった。周辺に活弁士どころか活弁さえ知らない
人ばかり。困り果てて矢吹むつみさんにぜひともお願いしたいと電話があったのだ。実は岡山映画祭の
人たちに会った時、ピースボートでの経験の一部始終を話したことがあったので、そのことを思い出した
らしい。

 こうして、わずかばかりの経験があると言うことで、むつみさんにお願いしたいと電話が来たのだった。
頼まれた側にしてみればほんの少しの経験であり、この映画は男性を中心にする活劇、これは私の手には
負えないと固く断ったのだが、どうしてもと言うことになり、それではかっちゃんとやってみたらと言う師匠の
佐々木亜希子弁士からのアドバイスもあって重い腰を上げることになった。

 取り組みは全く経験のない台本作りから始まった。実に半年以上に及ぶ大作業であった。大雑把な相手役の
かっちゃんと正反対のむっちゃん、初めから歯車はかみ合わなかった。そして衝突の連続であった。私の
書いた台本は大雑把すぎて没、それを参考にしながらむっちゃんが緻密な台本を書きあげ、台詞のところは
時代劇風にかっちゃんが修正すると言う、まさに二人三脚の台本つくりであった。台本だけならまだしも
これから気が遠くなるような練習が何日も続くことになった。

 夫婦ならではの良さや面白さもあるけれど、夫婦だから遠慮会釈はなく、なおかつ本来は一人で語るものを
二人で語ると言うのは容易なことではなかった。まるでタイミングが合わない。常に早すぎたり遅すぎたり。
私の大雑把な性格はこんなところにも現れ、これぐらいで良いのではないかと言うと、むっちゃんが厳しく
叱咤する。夫婦喧嘩は毎度のことであった。何日もふてくされてお互いに口を利かない日もしばしば。

 しかし同じ屋根の下に住んでいればこそ練習時間には事欠くことなく遅々としてではあったが全編を通しで
語ることが出来るようになってきた。その頃、突然のごとく電話があったのがNHKのN君からであった。
妙になれなれしい電話で、最初から昔からの知り合いのような電話ぶりであった。佐々木亜希子弁士がNHK
出身だったと言うこともあってNHK岡山放送局に電話をしてくれ、岡山に初めて活弁に取り組む夫婦がいると
言う情報を流してくれたらしい。その話を聞いたのがディレクターだったN君。彼もよほど映画好きだったらしく
飛んで取材に来てくれた。

 電話があって数日後、重いカメラを持ってN君が我が家にやってきた。活弁の練習風景や我が家の畑、果ては
児島の街の風景まで収録して帰っていった。数日間にわたる取材だった。

 岡山映画祭のメイン会場は当時のデジタルミュージアムであった。初めて活弁を語るにしては二人とも落ち着いて
いた。そして友人たちも何人か会場へ来てくれた。いよいよリハーサルが始まった。ところが画面の進行スピードが
我が家での練習とはまるで違っていた。私たちが台本を作り練習してきたのはVHSに収録したもの。会場で上映する
のはフィルム、回転スピードの違いが如実に表れていた。本番直前での思いもかけない大ハプニングであった。

 急遽、本番までの時間の間、台本の修正を行うことになった。こうしてにわかに修正した台本で本番に臨んだ。
楽士はサイレント映画専門のプロの演奏家「柳下美恵」さんであった。幾ら練習を積んできたと言っても
たかが素人の活弁士である。ましてや会場で台本を修正するなど、あり得ないような経験の上での語りであった。
うまく行くはずもなかった。柳下さんの卓抜した演奏に助けられ何とか本番を終えた。

 この日の柳下さん、購入したばかりで一度も触れたことのない電子楽器を使っての演奏であった。ただただ
プロの技に驚くほかはなかった。恐らくは活弁士なしで見て貰う方が良かったに違いない。

 こうした一部始終は全てN君のカメラに収まった。そして後日、岡山に誕生した世にも珍しい夫婦活弁士誕生の
一部始終が岡山県内限定で放映された。誠に名誉なことであった。彼からの今後はどうしますかと言うインタビュー
に対し並な回答ではあったが「出来れば多くの人に見て貰いたい、高齢者の施設などへ出向いて行きたい」と答えて
おいた。

 しかし現実には肝心な映画そのものが入手しにくいこともあって、その時には夢のまた夢で一回限りの限定
口演であった。そしてNHKの放映については後日談があった。実は午後の番組の中で全国放映されたのだ。
それをたまたま三重県に住んでいる農作業から帰ったばかりのいとこ夫婦が見てくれて、放映の後すぐに電話が
かかってきた。偶然にスイッチを入れたテレビにいきなり私たちが映っていたので驚いたとのことであった。
無理もないことである。平凡に暮らしていると思っていたいとこ夫婦が突然全国放送で大映しにされたのである。

 また、テレビ放映と相前後して山陽新聞にも大きく取り上げられた。その記事が縁となって家内の母が世話に
なっているデイケアセンター「しおかぜ」から、ぜひとも施設内で口演して欲しいと言う依頼が来た。その依頼主が
何と長女や長男が小学生の頃お世話になったことのあるスイミングスクールのコーチだった人からであった。
人の縁はまだまだ続いていた。

 その要望に応えるべくさんざん探し回った挙句、東京国立近代美術館フィルムセンターに「豪傑児雷也」が
あることが分かった。早速、問い合わせてみるとレンタルは低料金で可能だと言うことが分かった。

 こうして私たちにとってデビュー作品である「豪傑児雷也」一本からアマチュアの活弁士活動が始まった。
今までの六年間、幾つの口演を行ってきたであろう。公民館、小学校、デイケアセンター、地域のコミュニティ
東京でも九州でも、そして広島県に出向いても口演を行ってきた。実はその延長線上に今回の玉島活弁シネマ
ライブもあるのだが、その話は後日談としたい。後日談にも数々の鳥肌が立つような出来事が次々に起こる
のであった。

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