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人生いろは坂
出会いその不思議
2014年01月26日
テーマ:テーマ無し
その年はことの外忙しい年であった。それまでになく多くのところから活弁の依頼があったからだ。そして
何よりも母の容体が思わしくなかった。母は胃がんを宣告されていた。それもかなり進行していた。高齢だった
こともあって手術をするかしないか判断に迷うような状況であった。私たち家族の思いとしては出来るだけ
苦しませることなく見送ってあげたい。そんな思いであった。
しかし、母のたっての希望で手術に踏み切り、ひと夏を家で過ごすことが出来、晩秋になって再び入院と言う
ことになった。いつ病院から危篤の電話が来るか分からないような状況が続いていた。そんな慌ただしい日々で
さえも幾つかの活弁依頼が来ていた。
そして私たちの活弁が全て終わるのを待つようにして母は逝った。90歳の生涯であった。三重県の山奥に
生まれ縁あって京都にいた父のところへ嫁ぎ、京都にも空襲があるかも知れないと言うことで一時、父方の
実家に身を寄せ、その後、私が育った神辺の借家に移り住んだ。
母にとっては全くの見ず知らずの遠い土地での生活であった。しかし、すぐに友人が出来る人で、その土地
その土地の人と仲良く過ごした。父が酒におぼれるような事さえなければ幸せな生涯であったに違いない。
母の生涯は「さだまさしの無縁坂」や「すぎもとまさとの吾亦紅」の歌詞に重なることが多い。故郷を遠く
離れて暮らした母の生涯はどんな思いの一生であったのだろうか。
葬儀は家を継いでいた弟の宗派に従って執り行われた。導師は金光教合楽教会の若い先生だった。この先生の
話によると、教会にはいつもになく榊がたくさん取り寄せられていたとのこと。何かしら母の葬儀のために
準備されていたのではないかと思ったほどであったとのこと。きっとお母上はお兄さん夫婦の活弁が全て
終わるのを待っておられたのではないか。榊と言い、活弁と言い、母上のお導きではないでしょうか。
そんな風に話しておられた。まこと母の死はそのようにも思えた。母が元気だった時に親孝行をしていたので
悔いはなかった。
そして、この縁が元となり翌年、金光教合楽教会で活弁をやらせてもらった。その催し物は合楽教会が毎年
行っている土地の人への感謝祭のような催しものであった。例年はプロの演奏家や芸人を呼んで行うとのことで
あったが、この年に限ってプロの方以外にアマチュアの私たちが参加させて貰った。演じたのは、めでたくも
「子宝騒動」であった。金光教の理念にも沿っているとして先生の兄上である教祖にも大いに喜んで貰えた。
ちなみに教祖の年齢は私と同じ昭和19年生まれ、生まれた日は家内と同じ1月29日だとのことであった。
実はこの活弁を演ずるまでには経緯があった。母の葬式があって後、定期的に阪神方面の布教に行かれる帰り道
いつもは金光教本部に宿泊されるのに、このときは手前の玉島駅前にあるセントイン倉敷に泊まられた。その時、
乗ったエレベータの中に私たち夫婦の活弁チラシが貼られていたようだ。それを見て改めて私たち夫婦が活弁を
していることを思い出され、合楽教会での活弁と言うことになった。
ここで玉島での様々な経緯について書いておきたい。活弁で玉島へ最初に招待してくれたのは玉島観光ガイド協会
のNさんだった。備中県民局が主催する定例会の席で知り合った人だ。Nさんは何事においても熱心な人で神社の
境内にある狛犬の研究をされている。今は観光客を呼ぶために綿を植えて、この綿によって観光客を誘致しようと
毎年栽培面積を広げておられる。
実はその昔、玉島も児島と同じように綿作が盛んであった。また玉島港は綿の集積地でもあった。飛び地であり
商人が自治権を有する商人の街であった。自由闊達な気風にあふれ文人墨客なども多く集まった。その中に家内の
実家である毛利家の祖先である黒田陵山がいた。周辺の殿様からもお抱えの声がかかるほどの有名な絵師であった。
南画を得意とする絵師であった。
しかし、陵山は拘束されることを嫌い生涯自由人であった。市井の生活を好み一玉島人として生涯を送った。
向かいの四国は讃岐の出身の人であった。今も玉島にある陵山の墓石とうり二つの墓石が倉敷の阿智神社の麓の
墓地にある。
当時の賑わいを感じさせるものはわずかに残った町並みだけであるが、その中に甕江(おうこう)座という
芝居小屋があった。この芝居小屋こそ、後の目玉の松ちゃんが誕生することになった牧野省三監督との出会いの
場所であった。
牧野省三監督はマキノ雅弘監督の父であり、津川雅彦さんの祖父になる人であった。京都では千本座と言う
大きな芝居小屋のオーナーであった。これからは芝居だけではなく映画だと、先見性を持って映画つくりに
取り組もうとしていた矢先の出会いだった。
牧野省三は生まれたばかりの赤ちゃん(雅弘)の名前を付けて貰おうと金光教の教祖の元を訪れていた。
その時に尾上松之助のことを耳にしたのではないだろうか。自ら芝居小屋に出かけ、松ちゃんの面構えや大立ち回りに
すっかり惚れこんでしまった。そして自分が作ろうとしている映画について熱く語ったに違いない。この日から
おおよそ一年後、尾上松之助は一座をたたみ京都へと赴いた。以来、牧野省三、尾上松之助は驚くほど多くの映画を
世に送り出している。映画は監督の牧野省三が松之助を嫉妬するくらい大ヒットを飛ばし一世を風靡した。
そして市井では「目玉の松ちゃん」として敬愛された。
弟や両親が金光教の信者であったこと、私たちが玉島へ出向いて活弁を行うようになったこと、その玉島の地が
私たちの出発点となった尾上松之助と牧野省三の出会いの地であったこと、そして何より家内のむっちゃんの
祖先がこの地に長く住んでいたことなど、単なる偶然とは思えないのである。人は何かの縁で結ばれている。
その縁ゆえに導かれるようにして今日があることを強く感じるのである。この続きは次回に・・・・。
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