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人生いろは坂
地球一周船の旅
2014年02月17日
テーマ:テーマ無し
先日、Yさんのお店に行ったとき、何の話からだったか偶然にもピースボートでの旅の話が出た。そうか、そう言えば
あれから丸九年近くが過ぎようとしている。
先日、年賀状のことを紹介したマヌーさんとの出会いもピースボートの旅の上でのことだった。九年近くが過ぎようと
しているのに、未だに多くの友人との交流は続いている。たまに会う人もいれば、旅行の度ごとに旅行先から絵葉書を
くれる人もいる。結婚式に招かれ友人代表で挨拶をしたり、その娘に赤ちゃんが生まれたり、様々な変化はあるけれど
今もかけがえのない友人たちだ。今までにも我が家には幾人もの友人たちが来てくれ、一時、我が家は民宿のようだった
事もある。その頃、我が家のことを民宿「やぶき」と呼んでいたこともある。
そのYさんが旅の写真を見てみたいと言うので久々に、本当に久々にパソコン内の写真を探してみた。パソコンを
更新したので、どこに何を保存していたのかはっきりしないまま探してみると船旅での膨大な写真が出てきた。そして
その写真と一緒に船を降りてからの交流に伴う様々な写真も出てきた。
ピースボートのことなど何の知識もなく乗船し、旅の途中で様々なことがあって思いがけず多くの友人が出来たのだが
乗船直後の写真の中に、そういえばこの人とはここで出会っていたのだとか、このときには一緒の行事に隣り合わせて
いたのだなどと、今になって気付くことがいっぱいあって、改めて人の縁の深さを感じている。人はこうして出会い
親しい間柄になっていくもののようだ。
100日余に及ぶ長い船旅で南半球を一周した。このときの船内新聞のタイトルが4陸7海(よんりくななみ)であった。
4大陸と7つの海を旅すると言うことから、このタイトルが付いたようだ。この時のクルーズディレクターは初めての
経験だったようで、このときの経験が買われ、その後ベテランのディレクターになっている。またこのとき乗り合わせた
ピースボートスタッフや予備軍だった若い人の中から多くの優秀なディレクターが誕生した。ちなみにこのときの地球
一周は47回目であった。偶然の一致であろうか。また一番目の大陸はアジア大陸である。
そんな意味からもなかなかに意義深い船旅であった。また、旅の途中では在学中であった若者達も船を降り立派な
社会人になった人もたくさんいる。
船はそれぞれの人生を乗せてひたすら黒潮に逆らうように南下した。そしてフィリピン、ベトナム、シンガポールを経て
マラッカ海峡を抜けインド洋に出た。マラッカ海峡を抜けると赤道越え、賑やかに赤道祭を行い、インド洋を更に南下し
着いたところは洋上の真珠と言われているセイシェル諸島、そして更に南下してケニアに着いた。
いよいよ二つ目の大陸であるアフリカ大陸であった。ケニアから更に南下し、かの有名なマンデラ大統領の国だった
南アフリカ共和国のケープタウンに着いた。そしてアフリカ大陸の最南端の喜望峰の沖合を通って大陸の反対側の
ナミビアに着いた。
ここからほぼ真っ直ぐに大西洋を横断し南アメリカ大陸に向かった。三番目の大陸である。着いたところはブラジルの
リオデジャネイロだった。ちなみにブラジルからは国内便で、かの有名な世界三大瀑布の代表であるイグアスの滝へ行った。
そしてここから南下し海かと見まごうばかりの大河、ラプラタ川を遡上しアルゼンチンのブエノスアイレスに着いた。
アルゼンチンを離れ、更に南下していよいよ南アメリカ大陸最南端の島、ウッシュアイアという街に着いた。ここは亜南極
と呼ばれ、南極へ最も近い港町として南極へ物資や人を送る基地となっている。そしてマゼラン海峡を抜けて南に進路を取った。
船は巨大な氷河が幾つもあるパタゴニアフィヨルドの自然を心行くまで味わいながら、切り立った岩礁が点在する細い水路を
抜け太平洋に出た。
ここからは北上し着いたところがチリのバルパライソだった。首都のサンチャゴは陸路をバスで移動した。バルパライソは
世界遺産に登録されている美しい街だ。バルパライソを夜遅く出港し船は太平洋の孤島、かのモアイ像で知られている
イースター島へ着いた。イースター島には港がない。旅客船は沖合で停泊しテンダーボートと呼ばれていた小さな船で上陸した。
イースター島を離れるとニュージーランド、私たち夫婦はここでオプショナルツアーを計画していた。旅客船トパーズ号とは別れ
南島巡りのツアーに参加した。そしてツアーを終えて旅客機でオーストラリアのシドニーへ向かった。ここで再び仲間たちと
合流した。4番目の大陸である。
オーストラリアを出るといよいよ帰途の旅であった。100日は長すぎると思っていたのだが過ぎ去ってみると、あっと言う
間の旅であった。帰途の旅では太平洋戦争の激戦地だったパプアニューギニアのラバウルに立ち寄った。私の叔父が亡くなったと
聞かされていたところだった。叔父の霊を弔い、いよいよ日本だ。日本の季節は秋から厳寒期に差し掛かっていた。
こうして100余日に及ぶ旅も神戸港で終止符を打った。従来になく天候に恵まれた穏やかな旅であった。国内では台風の後、
新潟の大地震、更にはインドネシアでの大津波など国内外で大事件があったにも関わらず、船旅は実に穏やかで浮世離れした
旅であった。全ては神の差配か、はたまた気まぐれか・・・・。
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