メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

人生いろは坂

地球一周の旅から10年(17) アルゼンチン共和国 

2014年12月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 ラプラタ川はとてつもなく大きな河だ。大河と言うにふさわしい川である。何しろ河口付近からしばらく遡上しても両岸が見えない。
海かと見まごうばかりの大きさである。この川の真ん中(と思われるのだが)に、点々と竿を刺したような標識が見える。それを頼りに
航行する。この川は大河であるとともに大量の堆積物で浅くなっており座礁する恐れがあるようだ。

 川の色も遡るにつれ様々に変化する。上流は奥深いジャングルである。このジャングルに降った大量の雨が、この川の源流となっている。
本来はきれいな水なのだろうが、大量の土砂を含んでいるようで、どちらかと言うと山土のような色をしている。私は上甲板のジャグジー
の中で、ゆったりとくつろぎながら川の色の変化を眺めていた。

 この川を遡ったところにアルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスがあった。私にとってアルゼンチンはある種、憧れの国であった。
と言うのも無類のタンゴ好きであったからだ。岡山で公演があった時にはシンフォニーホールに鑑賞に行った。タンゴにはご存じのように
ドイツタンゴとアルゼンチンタンゴの両系統がある。いずれもそれぞれに良いのだが、アルゼンチンタンゴの方が情熱的である。
情熱的で哀愁を帯びた演奏とダンス、これらはセットで鑑賞するものを魅了する。

 アルゼンチンは未開の地を含む広大な国土を要する。特に国の南に広がる広大なパタゴニア地方は未開の地だ。そして南米には珍しく
白人が大半を占める国でもある。白人が多いのは中南米では珍しく、早くから奴隷解放が行われた結果だと言われている。国民の多くは
スペインからの移民たちの末裔だ。従って、何事によらず情熱的である。また、過去には政変も多く波乱にとんだ歴史を秘めている。

 私達はブエノスアイレスに着くと、その日にオプショナルツアーである「イグアスの滝」見物に出発した。イグアスの滝はアルゼンチンと
パラグアイ、そしてブラジルの国境が接するところにある。私達はアルゼンチン側から現地に入り、その後でブラジル側に移動した。
両国から見える景色は同じ滝を見ているのに全く異なっている。それほどに広大な地域に広がる巨大な滝である。

 飛行機から着陸直前に見えていた密林の中から湧くように上がってくる白い雲は、実は雲でも霧でもなく、広大な滝から流れ落ちる
水から発生している水煙だったのである。遠目には、まるで雲が湧いているように見えた。ともかくこの広大さと、その滝から常に
流れ落ちる膨大な水の量に圧倒される。この滝を見た後では、その他のどんな大きな滝と言えども小さな流れに過ぎない。

 場所によっては流れ落ちる滝の際にまで行くことが出来る。ここから下を眺めると、その流れに吸い込まれそうな錯覚を覚える。
滝の下では大きなモーターボートに乗った人達が滝の下から上を眺めている。このボートは滝の真下まで行くようだ。下からの眺めも
さぞかし迫力があるに違いない。

 この滝の下流域には水力発電所もあるらしく、その発電量は膨大なものだと添乗員が話していた。そうであろう、この水量は並みの
水量ではない。その膨大な水が絶え間なく流れ落ちる。それは背後にあるジャングルに降った雨である。とてつもなく大きな自然の
営みが、ここにはある。

 イグアスの滝の見学からブエノスアイレスに帰ると空は夕焼けに染まっていた。今夜の夕食はアルゼンチンの肉料理である
アサードであった。ブラジル側では肉を主体とした料理のことをシェラスコと言い、アルゼンチンではアサードという。いずれも
良く似たものだが、その形態は多少異なる。ブラジルではもっぱら金串に刺して焼いたものを大きなナイフで切り分けていたが
ここでは大きな肉の塊が、そのまま出てくる。肉だけでなくソーセージのように加工したものもある。

 食事をしたこの店の入り口には大きな炉の前に四足を広げた羊だろうか何だろうか、少し小型の動物がこんがりと良い色に焼き
あがっていた。私達はこの店でもまた、たらふく肉料理を堪能しトパーズ号へ帰った。

 翌日は市内観光と郊外にあるガウチョ牧場の見学であった。市内にはヨーロッパ風の建物が立ち並んでいた。また、市内を走る
大きな道路の両脇もヨーロッパの眺めそのものであった。ヨーロッパと言えば東欧しか知らない私だが、ここの建物もハンガリーや
チェコと言った東欧で見た建物と良く似ていた。中南米大陸の最南端にヨーロッパがあった。

 この街の中心に大統領府の建物がある。この建物のバルコニーからエビータが国民に向けて大演説を行ったと言う有名な場所である。
貧しい家庭の私生児として生まれ、幼くして首都ブエノスアイレスに出奔し、モデルや女優業など様々な職歴を経たのちに、当時
軍人だったペロンの愛人となり、後にペロンが大統領になった時、ペロンと結婚し、大統領夫人へと登りつめた数奇な運命をたどった
女性である。

 貧しい家庭の出であったと言うことと、ラジオのパーソナリティ時代に多くのファンを得ており、大統領夫人となったころには
絶大な人気を誇っていた。エバが正式な名前だがラジオのパーソナリティ時代からエビータと愛称され、若くして癌で亡くなったが
今もなお国民的なヒロインとして絶大な人気を誇っている。

 エビータの波乱にとんだ人生は映画にもなり、日本国内では劇団四季によって演じられている。この国には中南米特有の革命だとか
暗殺だとか、血なまぐさい事件が数多く残っている。また私たちが訪れた郊外には、貧しい農村での彼女の家を模した建物の中に
エビータの写真だとか遺品が数多く展示されている。

 この国の牧童たちのことを、カウボーイとは呼ばずガウチョと呼ぶ。幼少より巧みに馬を乗りこなし、牛を追う生活は男たちの
あこがれの仕事でもある。馬を操ることにかけては実に巧みで、訪れた牧場の片隅では何頭もの馬の轡を並べガウチョショーが
行われていた。また、ブエノスアイレスの郊外には広大な牧場が延々と広がっていた。広大な国土を有する国の羨ましい景色である。

 この国は数多くの政変だけでなく、経済危機にも見舞われている。私たちが訪れた時も経済危機の最中であった。乗用車が停止する
度に車の前に回り込んでものを売るもの、中にはフロントガラスを掃除して、わずかばかりの駄賃を貰うものなどいて、事態の
深刻さを感じさせたが、相対的には混乱も悲壮感もなく国民全体は実にのんびりとしたものであった。

 日本のようにマスコミが騒ぎ立てることもないのだろうか、それはそれ、これはこれと国民は経済危機とは関係なく、たくましく
生きているようでもあった。外貨がなくなったとか、お金が回らなくなったからと言って、食べていくことさえできれば良い。
それも国民性なのであろうか。必要以上に深刻に考えないのが、アルゼンチン流なのだろうか。

 大急ぎで港に帰り着き出港を待ったが一向に船出する様子がない。既に夜は更けていた。実は停泊した港はラプラタ川の川べりに
あって、水位が下がったために船底が川底に着いて動けなくなっていたのだ。従って、水位が上がってくるのを待って出港した。
夜は更けていた。トパーズ号はいよいよ南米の最南端ウッシュアイアに向かう。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ