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人生いろは坂

児島活弁シネマライブ10年 

2015年01月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 10年と言う長きわたって児島活弁シネマライブが行われて来ました。これも一重に多くの方々のサポートが
あったればこそのシネマライブでした。そもそも活弁なるものが何なのかも分からないところへいきなりライブ
などと言って持ち込むのも乱暴な話でありました。

 ただの映画と活弁は全く異なります。映画は映像と音声の組み合わせ。しかし、活弁は音のない映像と弁士と
楽士、そして会場の皆さんが一体となって醸し出す不思議な世界です。諸外国では、音の入っていない時代の映画は
字幕と楽器の演奏との組み合わせで見せていたようです。映画説明などはありませんから映画のストーリーは
もっぱら字幕から読み取っていたようです。

 従って、活弁は日本独自のもの、浄瑠璃だとか浪曲だとか講談などと言った様々な話芸が伝統的にあったから
こそ芽生えた独自の文化だったようです。従って、一人一芸、落語のように師匠や弟子などと言った関係も希薄
だったようです。と言うか、伝統文化として継承されていく間もなく、実に短期間に消えていった文化でした。

 活弁等と言うと、他人は怪訝そうな顔で「カツベン」と問い返します。それほど後世に残らなかった文化なのです。
しかし、この古き文化が子供たちには意外にも受けるのです。何故か理由は分かりません。アニメ全盛の時代に
白黒の上に画面がちらつくような映像、それなのに子供たちは食い入るように見つめ、たった一度きりなのに
翌年に会った時には活弁のおばちゃんやおじちゃんのことを覚えていて、映画の一シーンに出てくる言葉さえも
覚えているのです。

 子どもたちに活弁のワークショップをさせてみたことがあります。今の子供たちですから落ち着いて何かに集中
することは出来ないのですが、それでも二日間と言う短期間の間に見事に活弁が出来るようになるのです。どうやら
大人とは異なり、子供の頭の柔軟さが活弁に向いているような気がします。

 私達は10年前、ピースボートに乗って旅をしている途中で活弁士「佐々木亜希子」さんに出会いました。
その活弁を聞いて、すっかり魅了されてしまいました。画面から言葉が出てくる。終わってみれば男の声も女の声も
みんな活弁士一人で演じていたことに気付くのです。それぐらい違和感なく聞くことが出来るのは何故でしょうか。
むろん活弁士の語りが上手だからと言うのは言うまでもありませんが、ここに活弁の活弁たる面白さの所以があると
考えています。

 上手、下手は別にして誰でもが出来るし、下手は下手なりに聞くことが出来るのです。それが活弁の面白い
ところではないでしょうか。むろん素材である映画の面白さも重要な要素です。しかし、それ以上のものが
活弁には何かある。それが私の感想です。

 さて今回、私達夫婦活弁士は「子宝騒動」を演じました。この映画の面白さは、主人公を演じている俳優が
チャップリン気取りで演ずる面白さ、そして、普通ではあり得ないことをふんだんに盛り込んだ演出の面白さと
相まって、この映画の底抜けの明るさと面白さが人々を笑いに誘うようです。

 私もこの映画が大好きです。古き良き時代の日本の庶民の姿が描かれているからです。おしめが五月の空に
たなびき、明日食べる米すらない生活。水道を止められ、ガスを止められ、電気を止められ、その上、産気づいた
女房の出産費用もないと言う貧乏暮らし。大家さんが来て、近所の店子が心配げに集まってきて、そうした人が
みんな産気づいた奥さんの咲子さんのことを心配する。

 ほのぼのとして人情味あふれる人の温もりを感じます。金、金、金、ことあるごとにお金にまつわる事件が後を
絶たない世知辛い現代に較べ、何と言う大らかな時代なのでしょうか。のんびりとしたこの時代に、親が子を殺したり
子が親を傷付ける等と言ったようなことがあったのでしょうか。仮にあったとしても昨今のように日常茶飯事では
なかったはずです。

 世界経済だ、グローバル化だ、何だかんだと言い始めた頃から、ますます世の中は変になってきました。本当は
楽にならなければならないはずなのに、一向に良くなった気がしないのは何故でしょうか。登校拒否だ、うつ病だと
言うようになったのは、いつの頃からだったのでしょうか。社会がぎくしゃくしている影響はあってはならない
学校にまで及んでいます。うつ病などと映画の中の福田さんのような生活が主流だった時代(私達の子供の頃までは
そうだった)には、聞いたこともなかった病気です。

 近所の工場で働き、夕方は明るい内に早じまい。近くの銭湯へ行って汗を流し、夕食を澄ませば早速、近所の仲間と
将棋や碁に興ずる。たまには晩酌でほろ酔い機嫌、そんな生活にノイローゼなど入り込む余地はなかったはずです。
贅沢さえ言わなければ生活に必要なものは街の中で揃いました。肉屋は八百屋で八百屋は魚屋で魚屋は地殻の酒屋で
買い物を済ませました。お金は小さな町の中で回っていた時代でした。今は地方のお金の大半は中央に吸い上げられ
地域にはおこぼれほどのものしか残らないようになっています。

 地方の街はシャッター街、地方で生活できなくなった若者は都会へ出てしまい地方には私達のような高齢者ばかりが
取り残されています。限界集落は何も山深い地域だけの問題ではありません。児島のようなところでも、裏通りに
一歩入ると点々と空き家が目立ちます。子供の歓声など絶えて久しく聞いたことがありません。

 昔より良くなったと言って何が良くなったのでしょうか。今の幸せは何かを犠牲にして手に入れた幸せではないで
しょうか。本当に良くなったと言えるのは何の犠牲も代償もなく、良くなったら良くなったと言うことです。見た目
だけの便利さや豊かさが本当の幸せと言えるのでしょうか。人生は個々バラバラです。従って、ある人は本当に幸せかも
しれませんが、軋んで悲鳴を上げている社会の中で、多くの人は自らもその犠牲になりながら喘いでいるのが実態では
ないでしょうか。

 もう一度、真の幸せとは何なのかを考えてみたい。「子宝騒動」は、そのことを今に伝えようとしている映画に
思えてなりません。第10回のシネマライブを終えて感謝を述べるとともに、私達の幸せとは何なのかを問い直して
みたいと思っています。長らくのご愛顧ありがとうございました。またいつの日か再開できる日が来ることを願って
います。

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