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パトラッシュが駆ける!
奈半利の町のこと
2015年09月04日
テーマ:テーマ無し
幕末、土佐の志士ほど、悲惨なものはなかった。
と司馬遼太郎さんが、書いている。
志士のほとんどは「郷士」と呼ばれる特殊な階級で、
正規の藩士である「上士」階級からは、極端な差別を受けて来た。
坂本竜馬や中岡慎太郎らが、その郷士である。
土佐藩は、土佐勤王党を弾圧し、武市半平太らの幹部を獄に投じた。
郷士達は、その釈放を嘆願すると共に、藩論の、
尊皇攘夷への変換を求め、山中にこもった。
今なら、抗議のストライキと言ったところだが、
当時は厳しい封建の世だ。
命がけの行動だったに違いない。
二十三人が加わった。
これに耳を傾ける土佐藩ではない。
当時の藩論は、佐幕一色に染まっていた。
討伐しようと、兵を向けた。
郷士らは逃れたが、後に捕えられ、全員が首をはねられた。
「土佐の志士が幕末で流した血は、薩摩の芋畑のコヤシになり、
長州のミカン畑のコヤシになった」と言われる。
勤王と言う革命活動が、少なくとも土佐郷士の場合、
薩長とは違い、少しも投機的な儲け仕事にならなかった。
そのことを思う時、目を洗われるような思いで、
日本人の美しさを信ずることが出来る。
とまで、司馬さんは、土佐の郷士の私心の薄さを称えている。
* * *
二十三人の志士が、斬殺されたのは、土佐の東端に近い、
奈半利(なはり)においてであった。
川が流れている。
海に近い。
高知黒潮鉄道「ごめん・なはり線」の、高知市から来た場合の、
終点になっている。
当時も今も、僻陬であることに変わりはない。
私が訪れたのは、遍路旅の途上であった。
その日、室戸からの、三十余キロを歩いて来た私は、
この町に泊まるつもりであった。
既に宿の予約を得てある。
その宿を「二十三士温泉」とは、妙な名だと思った。
その謂われを知るのは、宿に着いてからになる。
司馬さんはともかく、私のような凡庸な人間は、
歴史のはざまにある、あらゆる事件に通じているわけではない。
奈半利に、あと4キロほどと近付いた時に、
道端に腰を下ろしている男が見えた。
その白い装束を見れば、すぐにわかる。
仲間である。
遍路である。
彼は大分疲労しているようで、靴を脱ぎ、足の火照りを冷ましていた。
「今日の宿は?」
「奈半利で泊まるつもりでしたが、何処も満室です。
全部断られました」
「どうするの?」
「仕方がない。野宿をします」
それは辛い。
野宿に適する場所が、あるとも思えない。
五月とは言え、夜は冷えるであろう。
そして、飯を食わせてくれる店だって、あるかどうか。
私は携帯を取り出すや、宿に電話をかけた。
彼を置き去りにして、私だけが、安寧な一夜を過ごすわけには行かない。
遍路は、それが一人旅であっても、常に「同行二人」であり、
お大師さんと共に歩んでいる。
そういう建前になっている。
この場合、道端で蹲っている男、それを、お大師さんと見なければならない。
部屋は六畳の和室だという。
そこに布団を二つ、並べて敷いてくれないかと頼んだ。
難色を示す宿をかき口説き、何とか了承を得た。
「ぼく、鼾をかきますよ」
その男、Yが言った。
「そんなもん」
一笑に付した。
だれが驚くものか。
鼾でも屁でも、好きなだけこくがいい。
宿は、鉄筋コンクリートの大規模な建物で、
日帰り入浴施設を兼ねていた。
久しぶりに温泉に入れる。
私達は、旅装を解くももどかしく、大浴場へと急いだ。
宿の前を、川が流れている。
その広い河原において、処刑がなされたと、
宿の説明文に書いてあった。
憂国の志士達の、悲惨な死。
その二十三士名の死を悼むにしては、この宿の、何と明るく、
屈託のないことか。
しかし、感傷に浸っている場合ではない。
私達は疲れ切っていて、空腹でもある。
温泉を浴び、食堂で夕食を食べた。
「ここの飲み代は、自分に持たせて下さい」
Yが言い出して、いくら遠慮しても、聞かない。
宿を得られた、礼と言うわけだ。
私は、ビール一本と清酒を一合飲み、それを快く、
Yにおごってもらうことにした。
翌朝、二人して朝食を食べていたら、ボーイさんがやって来て、
包を二つ差し出した。
「お昼に食べて下さい」
握り飯が二つ、沢庵の数切れと共に、入っていた。
遍路への「お接待」であった。
宿に入るや否や、私達は笠を取り、装束も脱ぎ、
以後は平服で過ごしている。
しかし、宿の人達は、見ていないようで、しっかり客を見ている。
昨夜だって、浴場係のおばさんが、私達の下着を洗ってくれ、乾燥まで済ませ、
渡してくれた。
その後Yとは、数日間行を共にし、高知市内に至り、
旅程の都合により、別れた。
Yは小太りで、その腕も足も、真っ黒に日焼けしていた。
ところがシャツとパンツを脱げば、そこは見事に真っ白い。
思わず笑いそうになった私は、彼をひそかに「日焼丸」と名付けた。
* * *
清岡道之助以下二十二士、地元、安芸郡の郷士ばかりであった。
中には、十代の若者が、数人居る。
土佐藩は、彼らを捕えるや否や、取り調べをするでもなく、
翌日には処刑に及んでいる。
あの広い、奈半利川の河原を血に染めて。
明治維新が成ったのは、その三年後のことである。
せめて河原に立ち、般若心経の一編くらい、
唱えてやるのであった。
先を急く旅人でも、そのくらいの時間はあったはずだ。
司馬さんの文を読みながら、かすかに悔恨が疼いている。
そして日焼丸の、屈託のない笑顔と、長閑な奈半利の町を、
懐かしく思い出している。
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我太郎さん
そういえば、高知に縁がおありになったのですね。
以前、よく訪れていた話を伺いました。
そういえば、やいろ鳥さんの動静が不明です。
このところ、このシニアナビにも登場しませんし・・・
ご存知ないでしょうか?
二十三士のお墓は、田野町にあったのですね。
奈半利に泊まった翌日、通過しました。
知っていれば、お参りくらい、したかったのですが・・・
2015/09/05 07:37:21
嫁が土佐っ子で
高知には何かと縁が有ります
あっちも行った、こっちも行った、結婚して50年ですからね
二十三士温泉にも中岡慎太郎の生家に行ったついでに寄りました
田野町に姪がおり挨拶に行ったついでに寺の名前は忘れましたが、二十三士の墓にお参りにも行きました
この話は20年ほど前のことで懐かしいです
2015/09/04 21:49:22
土佐は居良いか住みよいか
SOYOPKAZEさん、
土佐には、生きて維新を迎えさせてやりたかった、
人物がたくさんいます。
竜馬を初めとして、数限りなく・・・
人間は、出自ではなく、その志次第なのだと、土佐の維新史をみて思わざるを得ません。
そうですか、高知にご友人が・・・
是非また、訪れて下さい。
高知は、魚が美味いです。
酒も美味いです。
2015/09/04 20:58:33
土佐勤皇党
パトラッシュ師匠 こんにちは。
武市半平太、惜しい人物を殺してしまったものです。
長曾我部の家臣だっただけで、郷士として、ある意味武士と認められなかった者たちが維新の真の立役者なのに。
狭い藩という世界から、日本国の存亡賭けた一大事に志を持って臨んだ命を、酷くも散らせた山之内要道は愚かです。
その遍路道での出会いと触れ合い。
人は、こうでなくてはいけません。
私は高知に親しい友が居ます。
何時か再び高知を訪れることがあったら、若い命を散らした浜に、祈りを捧げたいと思いました。
2015/09/04 18:06:24
ありがとうございます
タンポポさん、
そうです。
その日焼丸です。
よく覚えていて下さいました。
司馬遼太郎さんの本を読んでいて、奈半利のことが出てきたら、無性に書きたくなりました。
2015/09/04 15:15:09
二回目は?・・・
吾喰楽さん、
お大師さんというには、風格がありませんでしたが、それでも、そう思うことにしました。
時折無性に、また遍路旅に出たくなります。
あれこそが、旅の中の旅だという思いがあるからでしょう。
しかし、体力に自信が持てません。
多くの難路を知っているだけに、躊躇うものがありあす。
2015/09/04 12:29:21
実ハ
おはようございます。
「宿無しのお遍路 実ハ お大師さま」という訳ですね。
さすが、パトラッシュさんです。
鉄筋コンクリートの大規模な宿でも、お接待があるんですね。
そろそろ、二回り目のお遍路など、如何ですか?
2015/09/04 10:51:23