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人生いろは坂

彼岸の彼方に 

2016年10月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 あの世とこの世。あの世とは想像の中でしか知り得ない世界だ。この世を去ってから行く世界。
いつか行く彼岸の彼方。そこは光溢れるところだという。暗いトンネルを抜けるとやがて大きな川の
流れが見えてくる。川の畔にはきれいな花が咲き乱れている。三途の川と呼ばれている場所のことだ。

 決して寂しくはない。三途の川を渡りきると、もう引き返せない。そこは全くの別世界だ。そう、
私たちがこの世に生まれて来るまで住んでいたところ。

 そこへ行ったらこの世で言う身体と言う実体はない。他にも形あるものは何もない。ただ感じることが
出来れば、ものの形は見えてくる。

 しかし、感覚が遠のくと、また元の静寂と快い光溢れる世界へと戻っていく。光溢れているとは言え
決して眩しくはない。ほどよい明るさだ。この心地よさは誕生前の子宮の中の心地よさに似ている。

 私は問われるままに応え、この世を選んで生まれてきた。冒険を楽しむために生まれてきた。この世へ
生まれ来るときは、みんな同じように希望を聞かれる。

 選ぶのはあくまで自分自身だ。強制的に送り出されたわけではない。大抵のものは、以前、この世に
住んでいた時の環境を希望する。周辺にいた人達との関係を、もう一度やり直したいと思うからだ。

 親だったものは、今度は子どもに、子どもだったものは、次は親に産まれて、繰り返し親子の関係を
やり直したいと希望するからだ。

 しかし、中には全く異なる環境を選んで生まれて来るものもいる。更なる冒険を楽しんでみたいと希望
したもの達だ。

 この世における時間は長いか短いかはっきりしているが、実際は瞬間的なことも百年という長さも
関係ない。それは、この世では時間を基準にしているからだ。

 10年でもその人にとっては十分過ぎるほどの時間だ。逆に100年生きたからと言って100百年分
の経験をしたわけではない。

 この世での様々な経験は、その人にとっての感覚に過ぎない。見たことも聞いたこともゲーム上の
駆け引きのようなもので、その時だけの空虚なるものに過ぎない。

 私たちは個々それぞれの人生を生きている。それぞれの人生は置かれた環境の中で様々に絡み合って
複雑な様相を呈しているが、紐解けば実にシンプルな姿形をしている。

 しかし、絡み合った糸を解きほぐすのは容易な事ではない。時には糸が絡み合ったまま切れてしまう
こともある。命に関わるような何らかのトラブルや事件が発生したときだ。

 人と人の関係は、ふれあえば共鳴するものもあれば、不協和音を生ずるものもある。また、現世で
感じる意識にはレベルの高いものもあれば低いものもある。意識の高いものは他のものからぬきんでた
経験を積むことが出来るし、低いものは低いものの経験しか出来ない。

 だからといって諦めることもがっかりすることもない。繰り返し、やり直すことの出来る人生だからだ。
何度も繰り返し体験することによって、少しずつ自分を高めていくことが出来る。それこそが現世での
様々な体験であり学びなのだ。 決して悲観することはない。人生は楽しめば良い。

 人は一人で生まれ一人で死んでゆく。あの世へ旅立つとき持って行けるものは何もない。この世に生を
受けた時のように丸裸のままである。この当たり前の事があまり理解されていない。

 また、親子であっても人格は全く異なる。人はそれぞれの人生を選んで、この世に生を受けた。そして
生まれた環境の中で、お互いの人生を生きてゆく。そこには様々なドラマがあり、愛憎が繰り返される。
時には親が子を、時には子が親を死に追いやることもある。昨今増えている骨肉の争いと言うものだ。
こうした出来事も形の上では親子であっても、人それぞれの人格であり、肉体の繋がりとは全く異なる
ものだからである。

 親子であっても理解し合えないのは当たり前。互いに理解し合えるような努力が必要だ。人はみんな
この世では個という存在。そして、この世は波乱に富んだ冒険の世界だ。

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