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父−5 

2011年04月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 

 

 

 

 

 
24歳で結婚した私は、翌年に長男が生まれ父となった。仕事に追われ、毎日があっという間に過ぎ去っていくという慌ただしい生活の中で、私はいつも、ようやく片言の話ができるようになった息子を車に乗せて連れ出していた。そのころは現在のようなチャイルドシートはなかったが、助手席に子供を座らせる小さな椅子を取り付け、訳の分からぬ会話をしながらドライブを楽しんだものだ。
 
車窓から見えるものを片っ端から指さして教えたが、ボーリング場の建物の上にある大きなピンを見て「ボーイング」、タイヤの看板を見て「ブジグジタイヤ」などと叫ぶ息子に、私の顔はくしゃくしゃだったに違いない。そのころ近くに新幹線の列車の形をした食堂があって、息子はなぜか新幹線のことを「アッヒッヒ」としか言えなかった。そして終いには喋り疲れて前につんのめりながら眠ってしまう息子に、私は父としての責任をずっしりと感じるようになっていった。
 
小学校1年生の時、大きな事件が起きた。自転車に乗っていた息子が道路を渡るとき自動車にはねられたのだ。頭蓋骨にひびが入り3日が山だと医者に言われたときは、お先真っ暗であった。
しかし、幸運にも奇跡的に回復をした息子は、約一月の入院生活で完治した。
私が川に落ちて一命を取り留めた事件と同じように、息子もその後は元気に生きていった。
小学校6年生の運動会で選手宣誓をすることになったが、息子はそれをいやだという。入場行進で一番先頭に立って歩く役がいいという息子をなだめすかして承諾させたが、祖父である父は大喜びでちゃっかり来賓席のテントの最前列に座って見ていたことを思い出す。
 
中学生になるとき、何でもいいからスポーツのクラブに入るように父親命令を出した。小学校上級生になった頃からよくキャッチボールをしていたし、野球観戦にも連れて行ったので、私と同じ野球部と言うだろうと思っていたがなぜか息子はバスケットボールを選んだ。バスケットシューズの話しはすでに書いたが、息子は試合のあるたびに見に来いという。それほど強いチームではなかったし、そんなに背の高くなかった息子が、懸命にプレイする姿を必死で追った父親の想い出はしっかりと胸に刻まれている。
 
中学生になる頃から日曜日や祭日の学校が休みの時、仕事を手伝うと行ってよくついてきた。
その時妻が作った弁当のおかずにメザシが入っていたことがあったが、ちょうど小さな川の畔で弁当を明けたとき、「これ、かわいそうだから川に逃がしてやろう」という。初めはピンとこなかったが、魚嫌いの息子がメザシがいやだったから言ったジョークだった。
 
私は小学校のころから息子の参観日には仕事の都合をつけて学校を訪れていた。ほとんどの家庭は母親が出席していたが息子は嫌がることはなかった。
そして、高校生の初め頃、今で思えばいわゆる反抗期だったと思うが何とか道を誤らず成長してくれた息子は、ついに大学受験の時がきた。
 
先生と親と本人が一堂に会して話し合う三者懇談会というのがあり、私は息子と一緒に登校し先生と会ったが、私の顔を見るなり先生は投げやりの態度で話した。「お父さん、息子さんによく言って聞かせて下さい。今、息子さんが受験すると言っている学校には、どこも合格する見込みがありません」先生の顔は真剣だったので、「おい、先生はこう云ってらっしゃるから、もっとおまえが合格しそうな学校を選べよ」というと、息子は「大丈夫だよ、通るよ」と口をとがらせて言う。「先生、息子がこう言っていますので受けさせてやって下さい。決して先生の責任にはしませんから」。先生と息子の間を取り持った想い出には、もう一つ忘れられない事がある。
 
息子はどうしても東京の大学へ行きたいという。私もそのことに異存はなかったが、浪人をさせるほどの余裕はないので、合格しなかった場合は就職する事を条件としていた。その代わりと言って息子は確か8つの学校を受験させてくれと言う。人生の大きな分岐点である。受験料もバカにならないが私はそれを承諾した。当時東京にいた妻の弟の家にお世話になり受験した息子から「合格した」という電話が入り、意気揚々と先生に電話をしたが「お父さん、ダメですよ。息子さんにからかわれていますよ」と言って取り合わないのであった。結局は8つのうちその1校だけ合格して、あとの7つは見事に不合格だったので、先生の眼力はたいしたものであった。
学校よりも親元を離れての東京での生活に憧れていた息子は、二つも三つも学校に通えるわけはないので一つ合格すれば上等と、最後は笑いながら喜んでくれた先生に毒づいていた。
 
場所は九州と東京で違うが、親元を離れて生活するという大学生の経験をしている私には息子の気持ちがよく理解できた。
 
私の乗った新幹線は、一秒の狂いもなく滑るように東京駅のホームに到着した。
ホームに降り立った私をいち早く発見した息子は、大きく手を振って迎えてくれた。私が九州で父と会った入学式の日にどんな顔をしていたのか覚えているわけはないが、こぼれんばかりの息子の笑顔に父の笑顔がだぶり、私もきっとそうだったに違いないと、精いっぱいの笑顔で答えた。
 
つづく
 

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