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父-6 

2011年04月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 

 

 

 

 

 

 
大学卒業後、父の会社で働くようになった私は、早く結婚して自分の子供がほしかった。これはなぜなのかいまだにはっきりと分からないが、一人の人間としてというよりも、哺乳類の一匹の雄としての欲望のようなものであったというのがあたっているように思う。
動物の世界でも見られるように、その種類によって様々ではあるが子育ては父親と母親の共同作業である。厳しい自然界の中で命をかけて子供を守りぬき育て上げていく動物たちの姿は、人間が見ていても感動を受けるものだ。しかし、小さな命が宿るのは母親の胎内であり、生まれてくるまでの一年近い間、母親の胎内で過ごすという宿命は、父親にとって大きなハンディキャップとなっている事は確かである。しかも生まれた後しばらくの間は母の乳で育つ子供にとって、幼少期は特に母親の存在が大きい。父親は子育てのスタートラインで一歩も二歩遅れをとっていることは明らかだが、その後の子育てに積極的に参加していくことでその遅れを取り戻すことはできるし、逆転も可能だということを知っておかなければならない。
 
どのような結びつきがあって結婚したかは、人それぞれであるが、まったくの他人同士であった男女が結婚することによって一つの家庭を築いていくのだから、意見の違いがあるのは当然である。私たちの場合、子育てにおいても真っ向から意見が別れることもあった。しかしそれは、子供達の行く末を思っての食い違いであり、子育てに熱中する二人にとっては情熱的な口論であったと記憶している。そして、息子が東京で大学生生活を送ることになったとき、親としての一区切りがついたと二人で安堵したのであったが、私が子育てスタートラインでの遅れを取り戻すことができたのは、小さいながらも事業をしていたという事が大きな要素だった。必要なときに自由に子供のための時間がとれるということは、そんなに簡単なことではなく、様々な苦難があるにせよ、そのことの有利さはなにものにも変えられないものであった。
 
息子の東京での生活が決まって、まずは住まいを確保しなければならなかったが、仕事を持つ私が出向き探すという暇はなく、その役目は妻が果たすことになった。そして結果的にはそれは大成功であった。この頃から妻は子どもたちに「宇宙人」と呼ばれていたのだが、見事にその宇宙人振りを発揮してくれて、これ以上はないという安価な住みかを見つけたのであった。
それは、トイレ、洗面所、炊事場、風呂は全て共同で、小さな自分の寝る部屋があるだけという、学校に近い下宿だった。東京での私立大学といえばかなりの負担である。それは息子にもよく分かっていて、生活費の一部はバイトで稼ぐことにもなっていたが、3年後に妹が同じように東京の大学へ入学したときの住居とは雲泥の差があって、今でもそのことについては大きな不公平だったと不満を漏らしている。
 
大学の入学式は予想していたとおりで、ほとんど何の感激も受けることなくあっさりと終了したが、希望していた東京での大学生活ができる息子にとっては、記念すべき出発の日となったに違いない。入学式終了後、帰りの東京駅から乗る新幹線に便利の良い場所で食事をすることにしたが、息子が下宿の先輩から聞いたという焼鳥屋へ行くことになった。
父親の懐を気にしながら「これと、これ、たのんでいい?」と遠慮がちにいう息子に、「今日はどんどん好きなだけ食べろ」と、メニューの価格を見ながら大見得をきったあの日は、父親として最も嬉しい日だった。二人でビールを飲みながら焼き鳥をつつき、思い出話にも花が咲く。
「確か小学校1年生の時、凧あげをしていて、凧糸を放してしまって、凧が飛んでいってしまったとき、オヤジが真剣に怒ったので、怖かったよ」という息子は「俺も子供ができたら、きっと凧あげをしてやろうと思っている」と話を続け、「それで、もし凧糸を放して凧が飛んでいってしまったら、同じように叱ってやるんだ」と笑う。
私は、「若いときの親は、凧あげも、コマ回しも、縄跳びも、キャッチボールも、みんな自分自身が楽しんでいて、決して子供を喜ばすだけのためにやっているのではない」と、その時の事を思い出しながら話した。
 
数々の思い出話や将来の話しなど、父と子の会話は弾み時間はあっという間に過ぎていったが、自分の学生時代の経験などを話しながら「留年はまかりならぬ、その時が学生生活の終わりの時」と、念を押すことも忘れなかった。「分かってるよ」と口をとんがらせていう息子の頭をぽんと叩いて店を出たが、夜の東京は少し寒く新幹線の乗り場へと急ぐ私は、明日から待っている現実の世界へ戻りたくないような気分であった。
 
駅のホームでガッチリ手を握り「元気でな」「オヤジも体に気をつけて・・・ありがとう」と最後の言葉をかけあって、少し早足で歩きながら、私は後ろを振り向くことができなかった。
ずいぶん後になって「あの時、小さな体のオヤジが人混みの中に消えていくのを見つめながら、何時までも涙が止まらなかった」と息子が妻に話した事を知ったが、私も、実はあふれる涙を見せたくなくて振り返らなかったという事は、まだ誰にも話していない。
 
つづく
 

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