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北軽井沢 虹の街 爽やかな風
父−7
2011年04月13日
テーマ:テーマ無し
現在でもそのことはまったく変わっていないが、私たちはこちらから子どもたちに電話をして連絡をとるということは、よほどのことがない限りない。しかし、今で思えば良かったという想い出は、息子が大学生の時、何度か東京へ行き一緒に過ごしたときがあったということである。
まだ一年も経たない頃の出来事だが、「バイクを買おうと思う」という息子に「とんでもない話しだ。自転車にしろ!」というと「自転車で通える場所かどうか見てくれ」と不機嫌な声で叫ぶように言ったものだ。事業をしていると、多少余裕があって調子の良いときもある。タイミングよく時間がとれたので息子に会いに行くことにした。
入学式は本校であったので、教養課程の2年間通う分校は見ていなかったが、バスに乗って学校までの道程を説明する息子は真剣そのものだった。それは、登り道の連続でとても自転車で手に負えるものでないことはすぐに分かった。バイクはバイトで稼いで自分で買うというので許可することにしたが、この時どんなバイトをしていたか記憶からなくなっている。学校へ行くにもバイトへ行くにもバイクがとても便利だということだった。バイクといっても原動機付き自転車で、それほど高価な物ではないが、親が保証人にならないと買うことができないのであった。
私の考えは、自動車はもちろんバイクといえども親が買い与える物ではない。それがなくては生活できないわけではなく、贅沢品ならば自分で買うべきという考えだった。たとえ裕福であっても子供に自動車などを買い与えるという愚かなことをしてはいけないと考えていた。
とんぼ返りで帰らなければならない私に、息子は初めから「炉端焼き」の店を見つけていた。
炉端焼きは 宮城県仙台市 の「炉ばた」という店名の店で、とれた野菜を囲炉裏端で焼いて客に出したのが発祥とされている。その後、客の目の前の囲炉裏端で魚貝類や野菜を焼き、長いしゃもじで料理を運ぶという形態の店が日本全国に広がった。息子は、比較的安価で食べながら飲めると言うことで当時人気のあった「炉端焼き」ならその当時の私の懐具合にピッタリと踏んだのだろう。「俺、シシャモが食べられるようになったよ」と話す息子は「これ、川に逃がしてやろう」と言ったあのときの弁当のおかずだったメザシの話しを覚えていたが、私は、この頃から息子が「食」と言う物にとても興味を抱いていることを知ることとなる。
次に東京で会ったのは、息子が3年生になり通学先が本校となったため、住まいを移したときだった。今度は古くて小さいながらも、バス、トイレ付きのアパートだ。東京在住の妻の弟が探してくれたものだったが、この頃息子は、毎月お金が少なくなるとこの叔父さんのところを尋ね腹一杯ご馳走になっていたという事を随分後に知った。この時の息子のアルバイト先はよく覚えている。小さな焼鳥屋で、父が来ると言ったら、ぜひ連れてくるようにと店のオヤジが言ったと話し、二人でその店を訪れた。
「お父さん、よくいらっしゃいました」と店主は愛想の良い笑顔を見せて、ビールの大瓶を運んでくる。そして、「息子さんのおかげでとても助かっています、今日はどんどん飲んでください」と言う。小さな店ながら店内はほぼ満席である。「オヤジ、○○を二人前!」「オヤジ、ビール」と声がかかるが、他の店員に指図してしばらく私たちの席に留まり、息子の事を褒めながら私にビールを勧め、私に会えたことを喜んでくれた。店主が席を離れたので「オイオイ、いったいどうなってるの?」というと、「いいオヤジでしょ?なんだかとても気に入られちゃって」という息子の話では、どうやら息子はアルバイトだが、客に人気があり、店の繁盛の一要因になっているらしいということだった。この焼鳥屋でのアルバイトが、後の自分の職業選びに多少でも影響があったのではないかと考えられる。飲み代はいらないという焼鳥屋の店主にお礼を述べ、息子のことをお願いして店を出たが「明日からまた頼むよ」と息子に声をかけ「お父さん、東京にいらっしゃったらまたぜひよってくださいよ」と笑顔で見送ってくれたその笑顔に、恐縮しっぱなしの私は何度もお辞儀をしていたが、酔いのまわった赤い顔はくしゃくしゃだったに違いない。
アパートへ帰ったが、銭湯へ行こうという息子について再び出かけた。 東京都北区神谷 町というところで生まれた私は、小学生の頃祖母のところを訪れたことがあるが、近くに「鹿の湯」という銭湯があり、そこへ行ったことを思い出した。息子と入る銭湯は、現在までその時が最初で終わりの一度きりになっているが、「オヤジ、背中を流そうか」という息子にちょっと戸惑った私は、「うん、たのもうか」と背を向けた。力強い息子の手の動きを感じ、幼い頃背中を流してくれた時とのはっきりとした違いを感じた私は、父としての喜びがいっぱいにこみあげてきた。
この年齢はよく食べる年頃で、帰りに寿司屋ののれんをくぐる。次から次へと話す息子の話の中心は、将来の就職のことであったが、私は、親の後を継ぐ必要はないので、自分の好きな道を進むように念を押す事を忘れなかった。私の場合は、幼い頃から「父の後を継ぐ」と言うことはすでに決まっていたかのような生活であったし、そのことに対して何の不満も不安も抱いていなかった。親によって敷かれたレールの上を何の疑問も感じずに走っていったという人生だった。
「親の後を継ぐ」ということは決して悪いことではない。それがスムーズに行われ素晴らしい人生を送る人も多い。しかし、自分はもっと違う道に進みたいというのなら、その道を目指すべきであるといのが私の考え方だった。
息子の東京における大学生生活は、何の問題もなく順調に経過し、4年生になってまもなく、自分の進路を「食の道」と決め、私も妻もそれに同意した。
つづく
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