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再訪岡山城〜備中高松城 

2011年05月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 岡山城
 
この地には天文元年(1532)頃、
備前国西半を領していた松田氏の配下・名主層の金光備前が城を構えていました。
永禄年間(1558〜1570)には金光備前の子の宗高が居城としていましたが
元亀元年(1570)に宇喜多直家が宗高を謀殺し城をうばいました。
天正元年(1573)に城を大改築し居城としました。
宇喜多直家の時代には現在の二の丸の位置に本丸があったといわれます。
現在の岡山城の原型を造ったのは宇喜多秀家です。
秀吉の国内平定が一段落した天正十八年(1590)から城普請を始め朝鮮出兵の中止期をおいて
慶長二年(1598)に完成しました。
 
関が原(1600)後は
 
 小早川秀秋  慶長七年(1602)まで・・継嗣のないまま病死
池田忠継(池田輝政の五男) 慶長八年〜慶長二十年(1603〜1615)・・5歳で城主となったため
     兄の利隆が執政代行として岡山城に赴き池田家の岡山藩政の基礎を作りました。
     慶長十九年(1614)十六歳になった忠継が岡山城主として岡山城に入りますが
     翌慶長二十年(1615)一七歳で病死しました。
池田忠雄(忠継の弟で洲本城主)慶長二十年から寛永九年(1615〜1632)
寛永九年(1615)忠雄死亡後、池田光仲(忠雄の子)が幼少だったため因幡鳥取32.5万石に写され、
鳥取藩主の池田光政(24歳)と国替えになりました。
以後明治まで池田家が継いでいきました。
 
岡山城をさらっと回って来ました。
月見櫓


天守石垣を回ってみます。
復刻城とはいえ漆黒の美しい城です。



 
真下から



 
 
本丸石垣
宇喜多秀家が慶長二年までに築いた石垣で加工をほどこさない自然石を用いている。
隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の根底が3m近くも埋まっていて
本来の高さは15.6Mもある。
関が原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さである。(看板より)



 




 
 
天守は昭和二十年の空襲で焼け落ち昭和四十一年に再建されました。



 
何で石垣に入り口を作るかなー ここは残念です。


 
宇喜多直家時代の石垣が発掘、展示されています。
 


 
  復刻天守閣ですが、築城400年目の平成九年に金箔瓦を葺いたそうです。
  黒と金が非常に合っています
  さすが備前宰相の城です。
 
 
 
備中高松城
看板


秀吉の水攻めで有名な備中高松城です。
城内の水攻めの図


 
 
広い平坦な公園になっています。
石垣は無く土塁造りで沼地に囲まれた城でした。

 
これは面白い!!
水攻めの時の各武将の位置が分かるよう工夫されています。





 
  
小早川隆景の陣                                吉川元春の陣
     うっすら見える低い山です。

       
      秀吉の陣の石井山


 
 
   本丸方面
  後の山は鬼の城跡


 
 
      本丸の清水宗治首塚


水攻め史跡公園にも行ってきました。

 
 
    蛙が鼻(かわずがはな)築堤跡


     
 
 
築堤上


看板


沼地で川が近いとはいえこんな広い平地を本当に湖のように出来たのかと思いましたが奇しくも昭和60年の台風で再現されました。
 
真ん中の丘が本丸です。


400年もの前の着想とは思えないです。
わずか12日で実現させた秀吉、官兵衛はやはりすごいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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