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ZRX1200S城
再訪・松山城〜三の丸から天守
2011年06月02日
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松山城
松山城の創設者は賤ヶ岳の合戦の七本槍の一人加藤嘉明です。
嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり四国攻め、九州の役、小田原の役などに水軍を率い参加し
武功をあげ天正十四年(1586)に淡路志智において1万5000石を与えられ大名となりました。
文禄元年(1592)文禄の役からの朝鮮出兵でも水軍を統率し朝鮮水軍と戦いました。
その功績により、文禄四年(1595)に、伊予国正木(松前町)に6万石を与えられました。
慶長の役(1597)では漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させ、明・朝鮮軍の包囲で篭城していた加藤清正を救援する武功を立て10万石に加増されています。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康側に味方し、戦功を認められて伊予松山20万石となります。
慶長七年(1602)道後平野にある勝山に築城を着手し、翌八年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。
寛永4年(1627)になってようやく完成します。当時の天守は五重でした
しかし嘉明は同年に会津へ家禄を40万石に倍増され転封されることになりました。
嘉明は寛永8年(1631年)9月12日に江戸で死去しました。
家督を継いだ加藤明成(あきなり)は統率力に欠け家臣団と対立してしまいました。
会津騒動(出奔した家臣達を追跡し殺害)を起こし改易されました。
加藤家は庶子の長男・明友が石見国吉永藩(1万石)封じられました。
天和2年(1682)には近江国水口藩2万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続しました。
松山には
そのあと蒲生氏郷の孫、蒲生忠知が出羽国(山形県)から入国し、二之丸の築造を完成しましたが
寛永11年8月参勤交代の途中、京都で病没し嗣子がいないので断絶してしまいます。
寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、
14代続き明治維新に至りました。
城山公園図
三の丸跡 何もない広場です。
二の丸 多聞櫓
二の丸にいたるまでの石垣
多聞櫓
二の丸内はコンクリートで区画を表示しています。
二の丸内。
池。
大井戸。並みの井戸とスケールが違います。
説明
昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見されました。
井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚火之間」が覆っており、
その基礎部分が大井戸の底に木組みとして残っています。
井戸の石段を上がったところにある一段低いところが、床下通路跡です。
火災の際には木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火災現場に運搬するという、
松山城二之丸御殿の消火システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようです。
一日に一寸水が湧くと言われていますが、現在は基礎の木組みを見せやすくするため、ある程度の量を保つよう自動排水しています。
規模は、東西18メートル、南北13メートル、深さ9メートルで、石積みは乱層積および段積になっていることが明らかになりました。
大井戸の東半分は井戸の中に三列各三本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられていました。その基礎部となった格子状の木材は現在も残っています。
古絵図には三ヵ所の階段を描いたものもあり、汲み上げた防火用水を床下を通って火災現場に運ぶ仕組みになっていたと思われます。
『松山城案内板』より
二の丸を出て本丸に向かいます。
石段
石段はよく整備されていて、15分も登ると本丸の石垣が見えてきます。
ここに出ます。
太鼓櫓(左)と筒井門、戸無門が見えます。
太鼓櫓。そりのある高石垣
奥に天守が見えます。
ここから太鼓櫓を背に石段を登ります。
戸無門をくぐり本丸方を見る。
戸無門からの展望。
曇り勝ちで海まで見えません。
本丸から見た筒井門(右)隠門(左)
太鼓門
城のゆるキャラ よしあきくん 城のマドンナは綺麗でした。
天守
次回、天守の周り、天守内に続きます。
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