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〈子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯〉第3回:良観との祈雨の勝負 

2022年11月17日 外部ブログ記事
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第第3回:良観との祈雨の勝負鎌倉幕府(武家の政府)の人たちは、大あわてです。「大変だ! このままでは、日本が攻められてしまう!」日本のすぐ隣の、蒙古という巨大な国から「我々の言うことを聞かなければ、日本に攻め込むぞ」という手紙が届いたのです。この話を人づてに聞いた日蓮大聖人さまは、口を固く結んで海を見つめています。実は、大聖人さまが幕府に届けた「立正安国論」の中で、“もし人々がこのまま間違った教えを信じ続けるならば、やがて仲間の中で争いが起こり(自界叛逆難)、他の国からも攻められてしまう(他国侵逼難)”ということを、すでに書いていたのです。「私が恐れていたことが、現実になってしまった。人々が争いに巻き込まれ、これ以上、苦しむようなことがあってはならない。あらためて、正しい教えを弘めていくべきである」早速、大聖人さまは、幕府の偉い人たちや鎌倉の大きなお寺の僧侶たちに話し合いを求めましたが、皆、それを無視しました。それどころか、大聖人さまへ、さらに強い迫害を加えていきます。その中心に、極楽寺良観という僧侶がいました。良観は、鎌倉の人々に自分のことを“立派な仏さま”であるかのように思わせておいて、裏では幕府と手を結び、悪いことをしていました。 そんな良観にとって、本当の教えを説く大聖人さまは、邪魔な存在でした。ある夏のこと。雨が全く降らない日が続きました。日頃から“雨を降らすことができる”と自慢していた良観は、雨が降るように祈ることにしました。そのことを知った大聖人さまは、良観に「7日のうちに一滴でも雨を降らせたならば、私は良観どのの弟子になりましょう。もし雨が降らなければ、良観どのが法華経の教えを信じなさい」と、勝負を申し入れました。良観は「これで日蓮をこらしめられる!」とニヤリ。すぐに多くの弟子を集めて、朝から晩まで毎日、必死になってお経を唱え続けました。ところが、どれだけ祈っても雨は降りません。さらに7日間、祈り続けても、雨は降らないどころか、激しい風がビュービューと吹き荒れました。大聖人さまは、良観に厳しく迫ります。「あなたは、雨を降らすことさえできないのに、どうして大事な成仏が、かなうというのか」 良観は、恥をかかされたと怒り、顔を真っ赤にします。 「日蓮め、絶対に許さぬぞ!」 後に、良観は幕府の人たちへ、「日蓮という悪い僧侶が、人々をだましている」と、うそを言いふらしました。 その話を信じた幕府の人たちが、大聖人さまをつかまえようと動きだしたのです。[道しるべ]予言の的中日蓮大聖人が文応元年(1260年)に北条時頼へ提出した「立正安国論」。そこでは、人々が悪法を信じて正法を用いなければ、やがて「自界叛逆難」と「他国侵逼難」の二難が起こると警告しています。="" >その後、「自界叛逆難」は12年後の文永9年(1272年)の二月騒動(北条一門の内部の争い)となって、また「他国侵逼難」は蒙古襲来(14年後の文永の役、21年後の弘安の役)となって現れました。大聖人が経文に照らして、現実の社会を深く洞察した結果であるといえます。大聖人は、当時の悪僧と悪政によってもたらされた人々の思想の乱れを鋭く見抜かれた上で、民衆を救済するために、“何としても未然に争いを回避しなければならない”との御心情から、国主を諫暁(諫め暁す)されたのです。 池田先生は語っています。
「大事を事前に察知する力は、まさに智慧の発現です。 その智慧は、真剣にして深い慈悲の結実と言える。民衆に不幸をもたらす大事を未然に察知する智慧は、一切衆生を救済されんとする御本仏の大慈悲に基づくものなのです」 万人の幸福を願う、御本仏の偉大な精神闘争――。ここに、大聖人の予言の本質があると拝せます。[地図・関連年表] 文永5年(1268年)閏1月(47歳)
 蒙古の国書(外交文書)が幕府に届く
 同年10月11日
 北条時宗らへ諫暁の書(十一通御書)を送る
 文永6年(1269年)11月(48歳)
 再び各所に諫暁の書を送る
 文永8年(1271年)(50歳)
 祈雨の勝負で極楽寺良観を破る
 (聖寿は数え年)

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