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たかが一人、されど一人

78年の歳月 

2023年08月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 昭和20年8月15日、既に満5歳まで成長していた自分。この日のことはかなり細かいことまで記憶している。抜けるように青い空、お昼前、門の外で地面に何か書いていたこと、そろそろ昼飯かと思いながら中に戻った時に庭先から見た座敷の風景が異様だった。母と祖母そして同居していた叔母までが座り込んで泣いていた。母が私に気付き立ち上がって近づいて言った。「戦争が終わったの。日本が負けたと天皇陛下が仰った。」「え、で俺たちはこれからどうなるの。アメリカ人の奴隷にされてしまうの?」「分からないけど多分大丈夫と思うわ。心配しないで取り敢えずお昼にしましょう。」一瞬頭の中では、掌に穴を開けられ縄を通されて知らぬ人たちと何処かに引きずられていく自分の姿がよぎったものだ。叔父も二人居たはずだが一人は肺結核で奥で休んでいたはずだ。兄たちは夏休みだから家に居たはずだが、どうしていたか思い出せない。もう一人の叔父が居て、彼は陸軍の宇都宮通信隊の将校で、彼も帰省中だった筈。彼もひょっとすると上の叔父と一緒だったのかもしれぬ。その夜は夕食の芋飯の後で下の叔父が軍隊から運んできた水飴を皆で舐めたような記憶がある。それから数日或いは数週間で、生活が激変した。叔父一家と同居していた広い家は借地だったらしく、地主からいきなり立ち退きを迫られて祖母の実家がある松代町への引っ越しがあり、兄たちは新学期から松代の小学校へ転校、こちらも幼稚園を変わることになる。同居していた叔母と赤ん坊だった従弟は叔父が宇都宮に戻る前に長野市内に借家を見つけて移ることになった。後で聞くと、叔父は通信隊所属の将校なので日本政府のポツダム宣言受諾を知っていたのだ。それから約1年半、南方に居る父の生死は全く不明。昭和22年2月か3月のある日突然の復員で、また4月から長野市の長野師範附属小学校に入学することになる。それから更に70有余年、思い返せば実に様々なことがあった筈だ。言えるのは明日何が起きるか分からぬまま毎日を送ってきたように思う。そして現在もどうやら生きている。過ぎし日を顧みても致し方がなかろうが、世の中は大勢の他人の働きで動くので子供の自分には分からないことだらけ。大人になった現在でも精神状態は子供時代と同じ。今日を機会に改めて日本の戦争について反省することが必要かもしれぬ。

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