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平成の虚無僧一路の日記

一休の母の手紙 

2011年11月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるらしい。
後世の創作だろうが、これを創った人は、実によく一休の
禅をとらえている。

内容は、

 釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを
 説いたといっても、一字も書き残してしはいないのです。
 釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、どこぞの寺の
 住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。

というもの。
一休は、安国寺を飛び出し、15歳の時、西金寺の謙翁の下に
走った。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような
肩書きを否定し、“乞食行”ひと筋の托鉢僧であった。
その師と仰ぐ謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷うことになった。絶望からか、20歳の時、瀬田川に
身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。

この時の状況をふまえて、この「母の手紙」が創られたと
私は考える。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって
書かれたものだ。釈迦は一字も残していない。ならば「経典を
諳んじるくらい学んだところで、釈迦のように修行をしなければ
糞虫と同じだ」と母は言う。「釈迦や達磨も下僕(しもべ)となす
くらいの修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、
どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。
俗人のままだっていいじゃないですか」というのだ。

虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。
寺も要らない、肩書きもない、教義もない、すべては
己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの寺の坊さんなんて肩書きはいらない。
それが虚無僧なのだ。

「虚無僧の元祖一休」のブログも見てください。

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