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私家版・日豪の比較文化人類学 〜群れから抜け出した羊が見たもの〜

群れに戻った羊が見たもの(7) 

2015年03月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 この項は「群れに戻った羊が見たもの(6)」からの続きで、

前回で書き切れなかった少年の犯罪についての続編です。

 

 先日、地下鉄に乗った時、相変わらず乗客のほとんどは

スマホ、ケイタイの操作に余念がありません。良く観察して見ると、

女子中学生の友だち同士であろうと思われる二人が並んで腰かけ、

時折会話を交わすものの、一人はラインを使っている様子、

もう一人はゲームに夢中です。

 

駅で降りてホームを歩いていると4人ほどの若い子たちが

立ち話をしながら皆そろってスマホを操作しているのも目撃しました。

また、アパートに帰って来るとロビーでは小学生の男の子が5人、

テーブルの周りに集まって、全員各々黙々とゲームに没頭していました。

 

 こんなことを取り立てて言い、「こんな通信・ゲーム機器の虜になって

可哀そうに」などと言うのは私のような偏屈オジンぐらいのもので

「今さら何言ってるの?」と笑われてしまうかも知れません。

でも、私にはスマホ中毒が蔓延した異様な風景にしか見えません。

 

 私が異様だと思うのは一人でスマホに耽るのならともかく、

同じ時間と空間を共有している人たちがいて、互いに会話も上の空、

皆ウェブの先にいる第三者と繋がってせっせとチャットしたり、

同じ場所にいる人とは100%関係のないゲームに耽るなんていう

状況、構図のことです。

何とも奇怪。まるでSFの世界です。

私はこれを「距離感の麻痺・喪失」と呼びます。

 

 人と人との関係は相手までの空間的な距離・間隔だけでなく、

親密度や上下・力関係、男女・年齢差など心理的な関係によって

互いの立ち位置、対処の仕方が微妙に変わってきますね。

それを「距離感」と呼んでいるのですが、特に日本のような群れ社会では

とても重要な感覚です。

 

 本来、目の前に居る親しい友人と会話もほどほどに、

異なる場所に居る誰かと自発的、意識的にコミュニケーションを

したりゲームを楽しむのは穏便に言えばマナー違反ですが、

目前の友人に対する軽視、侮辱でもあります。

私がそれをされたら、「忙しそうだね。じゃあね」と立ち去り、

以後その人とは疎遠にするでしょう。

私が人格のない「モノ」であると言われたことと同じだと思うからです。

 

スマホがそういった歪な距離感、人間関係を生んだのか、

物事の本質を見極めることが出来ず、批判能力も軟弱になったから

適切な距離感を保つことができなくなったのか、分かりませんが、

少なくとも、スマホが人の健全な距離感を阻害する一因だと指摘しても

的を射ているでしょう。

 

相手の存在、人格を無視するというアブノーマルな距離感からは

互いに信頼し合う関係は生まれません。

そして、相手を無視ならともかく、否定することにもつながり、

ひいては命を奪うということも起きうるのではないでしょうか。

 

群れ社会では個々の関係が濃密になるので、互いに適切な

関係・距離感を保つのはとても困難です。

どのような距離感で接するかは複雑な人間関係の中で失敗を

繰り返しながら会得して行くものですが、

スマホはそんなことは教えてくれません。

 

 「群れに戻った羊が見たもの」は2〜3回の連載のつもりでしたが

7回の今回で一応区切りを付け、他に課題が見つかれば

他の機会に投稿したいと思います。

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