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私家版・日豪の比較文化人類学 〜群れから抜け出した羊が見たもの〜

死刑、困ったものだ 

2011年08月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 江田法務大臣が先日死刑の執行について、「死刑は悩ましい刑罰で、
しっかり勉強している最中。悩んでいる時に執行ということにはならない」と、
当面は執行しない考えを明らかにしました。

 私自身、死刑という刑罰そのものの是非について明確に判断することはできません。
残忍・凶悪な罪を犯し、罪の重さを反省せず、再生の見込みもない犯罪者には
さっさと死刑を執行してほしいし、被害者の無念さと身内の願いも痛いほど分かります。

一方、「人を殺すことが罪ならば、刑という名で人を殺すことは罪ではないのか」という
素朴な疑問にも答えられる材料を持ち合わせません。
冤罪という、あってはならない間違いだって最近は続出していますしね。

 人を殺すという究極の罪と死刑という究極の罰ですから
その事実に対する考えは、人それぞれで法務大臣ですら「勉強」しなければ
ならないほどなのはよく分かります。

 しかし、法務大臣の考え、裁量、言いかえれば大臣個人の判断や主義、志向で、
あるいは語弊があるかも知れませんが性格や人生観、気分で
死刑の執行をしたりしなかったりするのは、どうしても納得できません。

 確かに、死刑の執行には大臣の命令書への署名が必要ですが、
刑事訴訟法には死刑執行の「命令は、判決確定の日から6か月以内に
これをしなければならない」と若干の条件付きですが、規定があります。
いわば、大臣の署名は形式だけの手続きなのです。

 それに、大臣の最終判断で全てを決めるというのならば、
判決確定までの捜査、取り調べ、証拠調べ、関係者への尋問、公判など、それに
担当した裁判員と判決文を書く裁判官の人知れぬ苦悩とその重い決断と結論は
何の意味を持つというのでしょうか。
それに、死刑囚にとって自分の罪によって刑が執行されるのではなく、
誰が大臣になるかによって自らの命運が決まるのは、全く理不尽なことでしょう。

 死刑の是非を論じ、廃止を望むのならば、それはそれで十分な議論を行い
法律を改定することが必要で、死刑はしないという国民的なコンセンサスが
あれば廃止にすればよいのです。

 でも、先日(2011年7月)ノルウェーで93人が犠牲になったテロ事件では
死刑のない同国の国民の多くが犯人の死刑を望んだといいますから、
それほど簡単に結論を出せる問題ではありません。
死刑制度そのものは残しておき、判例のハードルを高くしていくことと
仮釈放を認めない終身刑を取り入れることが現実的な方法ではないかと思います。

 もちろん、警察・検察の捜査能力を向上させ、取り調べと調書作成の全段階での
可視化を断行して冤罪の温床となる全ての可能性を排除しなければならないことは
明らかでしょう。
無実の被疑者を犯罪者に仕立てあげた過ちは
これまでいくらでもあったではありませんか。

 ともあれ、法務大臣が死刑執行の命令書に署名するのに悩むのは
よく分かりますが、
法を破り何の落ち度もない人の命を奪うような犯罪が起きないような社会の実現に
大いに悩み、勉強していただきたいものです。



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